隠居・最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
島原の乱の翌年、寛永16年(1639年)に家督を嫡子・勝俊に譲り一分斎と号する。しかし、隠居料の1万石を領内の投資に注ぎ込むなど、藩政への関与は続けた。寛永20(1643年)、京都大徳寺で1年間、禅の修行をする。正保元年(1644年)、法躰となり宋休と号す。慶安4年(1651年)に福山城内において88歳で死去し、福山城下の菩提寺、賢忠寺に葬られる。 神道の礼では聡敏明神として祀られ、福山城北にある福山八幡宮の境内に聡敏神社があるほか、茨城県の結城城址脇にも聡敏社がある。また、徳川二十八神将として日光東照宮に配祀される。 大正8年(1919年)、従三位を追贈された。
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