隠居事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:50 UTC 版)
2代藩主・伊達忠宗の六男として誕生する。母は側室の貝姫。幼名は巳之介。母が後西天皇の母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。 貝姫は早くに病没したため、父・忠宗の正室である振姫の養子となった。六男であったが、正保2年(1645年)の兄・光宗の夭折により嫡男となり、忠宗から自身の後継者と3代将軍・徳川家光に披露された。承応3年(1654年)に元服し、4代将軍・徳川家綱から一字を拝領して綱宗と名を改めるとともに従四位下・美作守となる。万治元年(1658年)7月に父が亡くなり、9月に幕府から家督相続の許しを受けたことで仙台藩3代藩主となる。 綱宗は若年で家督を継いだが、酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされて幕命により万治3年(1660年)7月18日、不作法の儀により21歳で隠居させられた(綱宗隠居事件)。家督は綱宗の2歳の長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ。 この間の経緯であるが、池田光政(岡山藩主)、立花忠茂(筑後柳河藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、老中・酒井忠清に願い出て酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらうことで一致したが、綱宗は酒井の強意見に耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは7月9日に綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出て7月18日に「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている。なお、7月19日には宗勝の命令で綱宗近臣の渡辺九郎左衛門・坂本八郎左衛門・畑与五右衛門・宮本又市の4人が成敗(斬殺)された。 伊達家の正史『治家記録』には「故あり逼塞」とのみ記され、『徳川実紀』では酒色に溺れて家臣の意見に耳を傾けなかったことが逼塞の原因と記されている。
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