隠居制
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志摩地方では、長男の結婚に伴い親らが主屋を明け渡し、他所に移る「隠居制」が広く存在した。細部は江戸時代の村ごとに差異があり、風習が希薄化・消滅した地域もあれば、維持されている地域もある。土地や労働力の問題から、隠居屋という固定した屋敷は、農村部に見られる。 志摩市大王町船越:子供夫婦と2、3年同居した後に隠居屋敷へと住み替えて、家の切り盛りを任せる。 志摩市阿児町国府:同居する長子が結婚して初孫誕生の一週間後、他の子どもを連れて隠居屋へと住み替えて家の切り盛りは長子に一任する。
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隠居制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:21 UTC 版)
槇垣に囲まれた屋敷地の中では隠居制が行われた。平成期以降は、若者が職を求めて国府を出ていくため、下記の隠居制の特色はすでに過去のものとなってきている。 国府の屋敷は150 - 300坪(495.9 - 991.7 m2)あり、敷地内に家督を譲った両親らが暮らす隠居屋が設けられている。嫁と姑が別居する形態のため、「嫁天国」と呼ばれた。民俗学的調査を通して1960年代にはすでに研究者の間で知られ、調査団は世代別に別居する国府の隠居制を称賛したが、当時の国府の住民は特にこの制度を誇りとはしておらず、周辺の地区で国府を真似する動きはなかった。隠居制は国府特有の制度ではなく、現・志摩市域では磯部町穴川、磯部町飯浜、磯部町坂崎、大王町船越、志摩町和具の間崎島、鳥羽市でも答志島の和具集落や浦村町の今浦などでも行われていた。 国府の隠居制は、長男夫妻に最初の子供が生まれ、7夜の祝いを終えると、長男の両親は未婚の子供を連れて隠居屋へ移るという、家庭内別居の形をとる。隠居した両親と長男一家は、同じ敷地に住むが食事や家計を独立して行い、両親は「隠居田」・「隠居畑」として耕作しやすい土地を3分の1ほど長男夫婦から分与されて、これを耕しながら生活する。伝統的には別々に農作業を行っていたが、昭和戦後期に農業の機械化が進むと、耕作は両親と長男一家の共同作業になった。普段は別個に生活するが、あくまでも家庭内別居であるため、納税は長男夫妻が代表して行い、隠居者が亡くなった場合は遺体を主屋に運び、長男一家が葬儀を取り仕切った。隣接する阿児町甲賀では隠居すると墓を別にしていたが、国府では墓は共通である。 隠居制は農家だけでなく、商家や医師、住職の間でも行われた。3世代が暮らす家では、隠居した夫婦を大隠居・中隠居と呼んだ。なお、次男以下は結婚すると国府を出る風習があるため、隠居しない。
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隠居制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 15:55 UTC 版)
穴川には隠居制が存在した。穴川の隠居制は、長男の結婚に合わせて両親が次男以下を連れて本家を明け渡し、別の屋敷(隠居屋)に移り、財産を約3分の1継承して別世帯となるという風習であった。次男は隠居屋で妻を迎え入れ、両親から財産を引き継ぎ、三男以下は隠居屋からさらに分家するか、都市へ出て行った。志摩地方の隠居制は阿児町国府の独特な風習として語られることがあるが、江戸時代には志摩国で広く行われていたようである。
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