隠居時代とは? わかりやすく解説

隠居時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:51 UTC 版)

徳川光圀」の記事における「隠居時代」の解説

元禄3年1690年10月14日幕府より隠居許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主継いだ。翌15日権中納言任じられた。11月29日江戸を立ち、12月4日水戸到着。5か月ほど水戸城逗留ののち、元禄4年1691年5月久慈郡新宿村西山に建設され隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳水戸黄門シリーズ助さん」のモデルとされる近臣)ら60余人伺候した光圀は、日本近代的な考古学が始まる前の江戸時代に、古墳発掘調査命じたこともある。常陸の西隣、下野国現在の栃木県)で水戸藩領だった那須郡小口村(現・那珂川町)の庄屋大金重貞が延宝4年1676年)、旅僧の円順から「湯津上村に古い碑がある」と聞いて現地訪れ、この那須国造碑刻まれ文章調べて那須記』という本にまとめ、光圀献上した湯津上村藩領でなく旗本知行地であった)。光圀は、碑を那須国造の墓ではないか考え貞享4年1687年)に佐々宗淳調査命じた。 碑の下からは何も出土しなかったが、佐々は碑を修繕して鞘堂建てた佐々元禄5年1692年)、碑の近くにあり、那須国造のものと伝承される侍塚(上侍塚古墳下侍塚古墳)を発掘して鏡、甲冑石釧管玉などを見つけたが、埋葬者明記した墓誌などはなく、光圀出土品の箱に収めて埋め戻させた。この折の記録は、『湯津神村車塚修理』と、水戸藩保管していた図面をもとに明治9年1876年)に栗田寛記した葬礼私考』に残されている。日本初学術的着想による発掘といわれるこの調査は、翌元禄6年1693年4月終了し6月には光圀湯津上村訪れ那須国造碑と両古墳視察したまた、古墳調査終えた同年4月佐々楠木正成自刃したとされる摂津国湊川派遣し、正成を讃える墓を建造させた(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。このほか同年藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて救民妙薬』を編集し薬草から397種の製薬方法を記させた。 元禄6年1693年)から数年間、水戸藩領内において、「八幡改め」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社整理し神仏分離図ったのである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却43社が祭神変更された。 元禄7年1694年3月5代将軍徳川綱吉の命により隠居後初め江戸にのぼり、小石川藩邸入った11月23日小石川藩邸内で幕府老中諸大名旗本招いて行われた能舞興行の際、重臣藤井紋太夫刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋紋太夫呼び問答の後、突然刺したという。現場近く目撃した井上の『玄筆記』に事件様子書かれている幕府出され届出によると、紋太夫光圀引退後高慢な態度見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟殺害ではなく以前からの処罰念頭にあり、当日問答によっては決行ありうる考えていたようである。理由詳細不明だが、紋太夫柳沢吉保結んで光圀失脚謀ったためとも言われている。翌元禄8年1695年1月光圀江戸発ち西山荘帰った元禄9年1696年12月23日亡妻泰姫命日出家する寺社改革断行した光圀であるが、久昌寺招いた僧・日乗らと交流し年齢重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる72歳頃から食欲不振目立ち始め元禄13年1701年12月6日食道癌のため死去した享年74(満73歳没)。

※この「隠居時代」の解説は、「徳川光圀」の解説の一部です。
「隠居時代」を含む「徳川光圀」の記事については、「徳川光圀」の概要を参照ください。

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