隠居時代
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元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継いだ。翌15日、権中納言に任じられた。11月29日に江戸を立ち、12月4日に水戸へ到着。5か月ほど水戸城に逗留ののち、元禄4年(1691年)5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。佐々宗淳(水戸黄門シリーズ「助さん」のモデルとされる近臣)ら60余人が伺候した。 光圀は、日本で近代的な考古学が始まる前の江戸時代に、古墳の発掘調査を命じたこともある。常陸の西隣、下野国(現在の栃木県)で水戸藩領だった那須郡小口村(現・那珂川町)の庄屋・大金重貞が延宝4年(1676年)、旅僧の円順から「湯津上村に古い碑がある」と聞いて現地を訪れ、この那須国造碑に刻まれた文章を調べて『那須記』という本にまとめ、光圀に献上した(湯津上村は藩領でなく旗本知行地であった)。光圀は、碑を那須国造の墓ではないかと考え、貞享4年(1687年)に佐々宗淳に調査を命じた。 碑の下からは何も出土しなかったが、佐々は碑を修繕して鞘堂を建てた。佐々は元禄5年(1692年)、碑の近くにあり、那須国造のものと伝承される侍塚(上侍塚古墳と下侍塚古墳)を発掘して鏡、甲冑、石釧、管玉などを見つけたが、埋葬者を明記した墓誌などはなく、光圀は出土品を松の箱に収めて埋め戻させた。この折の記録は、『湯津神村車塚御修理』と、水戸藩が保管していた図面をもとに明治9年(1876年)に栗田寛が記した『葬礼私考』に残されている。日本初の学術的着想による発掘といわれるこの調査は、翌元禄6年(1693年)4月に終了し、6月には光圀が湯津上村を訪れ、那須国造碑と両古墳を視察した。 また、古墳の調査を終えた同年4月、佐々を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、正成を讃える墓を建造させた(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。このほか同年、藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて『救民妙薬』を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。 元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、「八幡改め」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。 元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後、突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。翌元禄8年(1695年)1月、光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った。 元禄9年(1696年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に出家する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた僧・日乗らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。 72歳頃から食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1701年)12月6日に食道癌のため死去した。享年74(満73歳没)。
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