隠居謹慎後の宗春とは? わかりやすく解説

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隠居謹慎後の宗春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:23 UTC 版)

徳川宗春」の記事における「隠居謹慎後の宗春」の解説

宗春は隠居謹慎後、父母墓参り含め外出一切許されなかったと言われているが、実際にそのような粗略な扱いなどされていない尾張藩祈禱興正寺にも参拝記録残っており、「父母墓参り許されなかった」というのも文献確認できない。後に菩提寺である建中寺参拝しその時市中人々提灯軒先ならべて参拝迎えた、という記録残っている。 御連枝美濃高須藩主の松平義淳徳川宗勝として後継となったが、宗春の養子という形式ではなく尾張藩幕府が一旦召し上げ上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張黄門(前中納言)」と呼ばれるうになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。 宗春の蟄居謹慎6代藩主継友実母泉光院の三之丸屋敷であり、時には藩主・宗勝より貴重な品々贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍吉宗使者遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩魚捕り出来ず気鬱ならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある。 宝暦元年1751年)、吉宗薨去する。宝暦4年1754年)、御下屋敷(75千坪もある尾張藩歴代藩主隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺建中寺への参拝尾張藩祈願所である八事山興正寺への参拝許される蟄居後の宗春は、茶碗焼いたり、絵を描いたり、光明真言念仏唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野尾張藩鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った明和元年10月8日1764年11月1日死去享年69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来男系血筋断絶した

※この「隠居謹慎後の宗春」の解説は、「徳川宗春」の解説の一部です。
「隠居謹慎後の宗春」を含む「徳川宗春」の記事については、「徳川宗春」の概要を参照ください。

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