隠居謹慎後の宗春
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宗春は隠居謹慎後、父母の墓参りも含め、外出は一切許されなかったと言われているが、実際にはそのような粗略な扱いなどされていない。尾張藩の祈禱寺興正寺にも参拝記録が残っており、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できない。後に菩提寺である建中寺へ参拝し、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えた、という記録も残っている。 御連枝美濃高須藩主の松平義淳が徳川宗勝として後継となったが、宗春の養子という形式ではなく、尾張藩は幕府が一旦召し上げた上で改めて宗勝に下した。宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。宗春の子供は8人のうち7人までもが、宗春の尾張在府中に江戸で亡くなっていた。 宗春の蟄居謹慎は6代藩主継友の実母・泉光院の三之丸の屋敷であり、時には藩主・宗勝より貴重な品々の贈り物があり、悠々自適の生活を送れていた。また、将軍・吉宗が使者を遣わし、宗春の蟄居謹慎に「不足しているものはないか」「鷹狩や魚捕りが出来ずに気鬱にならないか」と、かなり気を遣って気色伺いをしたという記録もある。 宝暦元年(1751年)、吉宗が薨去する。宝暦4年(1754年)、御下屋敷(7万5千坪もある尾張藩歴代藩主の隠居所)へ移る。尾張徳川家菩提寺の建中寺への参拝、尾張藩の祈願所である八事山興正寺への参拝が許される。蟄居後の宗春は、茶碗を焼いたり、絵を描いたり、光明真言や念仏を唱えたりして、悠々自適の生活を送ったという。側室のいづみ(宝泉院:京出身、猪飼氏)と、おはる(貞幹院:元吉原太夫春日野、尾張藩士鈴木庄兵衛の娘)は最後まで宗春に寄り添った。 明和元年10月8日(1764年11月1日)死去。享年69(満67歳没)。宗春の死によって徳川綱誠以来の男系の血筋は断絶した。
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