綱村隠居事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 10:09 UTC 版)
寛文事件が落着した後、藩主としての権力を強めようとした綱村は、次第に自身の側近を藩の重職に据えるようになった。これに不快感を示した伊達一門と旧臣は綱村に諌言書を提出したが、聞き入れられなかった。このため1697年(元禄10年)、一門7名と奉行5名の計12名の連名で、幕府に綱村の隠居願いを提出しようと試みた。これに対し、伊達家親族の高田藩主稲葉正往は隠居願いを差し止めた。 その後も再三にわたり、一門・家臣の綱村に対する諌言書の提出が続いた。1703年(元禄16年)、この内紛が5代将軍徳川綱吉の耳に達し、仙台藩の改易が危惧されるようになった。このため老中(1701年(元禄14年)就任)の稲葉正往は綱村に状況を説明し、隠居を勧告した。これに促され、綱村は幕府に対して隠居願いを提出し、綱村には実子がなかったため従弟の伊達吉村が5代藩主となった。伊達騒動は綱村の隠居でようやく終止符が打たれることになった。
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