村澤高包とは? わかりやすく解説

村澤高包

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/14 08:41 UTC 版)

村澤 高包(むらさわ たかかね、1749年寛延2年) - 1837年天保8年)11月8日)は、江戸時代後期の慈善家和算家。通称は文右衛門(久右衛門とも)。

生涯

信濃国更級郡今里村の和算家篤志家村澤布高の長男として生まれる。村澤家は豪農で、江戸時代初期には今里に在ったという。幼い頃から祖先と父・布高を手本として質素倹約に励み、貯蓄を始めた。それは凶作に苦しむ農民を救う為であった。また、貧しさに苦しむ人々を助ける為に医学を修め、医薬を貯蔵し、報酬を求めず治療に当たり、布高から数学を学んで門人となり、小県郡別所観音への算額奉納などもしている。

1783年(天明3年)、天明の大飢饉で村人が租税困難となった際、蔵の米で村の公租を代納しつつ、困窮に喘ぐ人々に蓄えてあった銭を与える救貧活動を行った。1789年(寛政元年)に祖父が亡くなると、凶作に備えるべく、金百両、米百石をお上に寄付して祖父の遺志を果たした。高井郡小沼村では、1804年(文化元年)より洪水被害に苦しんでおり、それを救う為、紐に通した銭三万貫を出し、そして1808年(文化5年)には、凶作で宿駅の負担に喘ぐ水内郡牟礼村に金500両を出した。

1808年(文化5年)、長年に渡る慈善活動の数々と、藩政への貢献によって苗字帯刀を許され、郡名である更級を名乗る事を許された。

1810年(文化7年)に隠居。晩年は快徹(徹翁とも)と号し、医術と薬剤によって人々を救い続けつつ、近隣郷の子弟達の算術の先生となった。

1837年(天保8年)没。

参考文献

  • 長野県更級郡役所『更級郡誌』(明治文献、1973)
  • 信濃教育会更級部会、信濃教育会埴科部会編『更級郡埴科郡人名辞書』(象山社、1978)
  • 平凡社『日本人名大辞典 6』(平凡社、1938初版、1979覆刻)
  • 赤羽篤外編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。

関連項目


村澤 高包

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 04:05 UTC 版)

「村澤高包」の記事における「村澤 高包」の解説

1837年天保8年11月8日)は、江戸時代後期篤志家和算家通称は文右衛門(久右衛門とも)。

※この「村澤 高包」の解説は、「村澤高包」の解説の一部です。
「村澤 高包」を含む「村澤高包」の記事については、「村澤高包」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「村澤高包」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「村澤高包」の関連用語

村澤高包のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



村澤高包のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの村澤高包 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの村澤高包 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS