公武合体
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公武合体(こうぶがったい、旧字体: 公󠄁武合體)は、幕末(1850年代から1860年代)の日本において、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策[注釈 1]、公武合体論、公武合体運動、公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。
注釈
- ^ 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46 帝国 歴史-713)p 144に「桜田門外の変ののち, 幕府は, 朝廷を利用して権威の回復をめざす公武合体策をうち出し, 孝明天皇の妹を14代将軍徳川家茂の夫人としました。」と記載され、『日本史B』(実教出版。高等学校地理歴史科用。平成14年1月25日発行。平成9年3月31日 文部科学省検定済。教科書番号:7実教 日B582)p 225に、「大老を暗殺された幕府は, 朝廷との関係を回復して反幕勢力をおさえるため, 朝廷と幕府の融和をめざす公武合体策をすすめた。」と記載されている。
- ^ 1858年(安政5年)頃、大老井伊直弼の腹心である彦根藩士長野義言と、同藩士宇津木景福との間の手紙に示された、朝廷統制策が起源と考えられている[2]。
- ^ 実際の婚儀は1862年(文久2年)。
- ^ 公式記録への記述にはなく証言は後年の浅野長勲のもののみ。詳しくは小御所会議を参照。
出典
公武合体派
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一方、越前藩の松平慶永(春嶽)、薩摩藩の島津斉彬・久光ら公武合体派の有力者からは、朝幕の連携に加え、外様藩をも含めた有力諸藩が力を合わせて挙国一致の体制を築くことが主張された。 詳細は「公議政体論」を参照 これは従来の譜代大名が就任する老中制に変革を迫るものであり、保守的な幕閣との摩擦は避けられないものであったばかりか、幕府中心の公武合体政策とも次第に齟齬をきたした。彼らは通商条約の異勅調印には批判的であったものの、開国・通商容認論が大勢を占めており、戦争も辞さぬ破約攘夷を唱える尊王攘夷急進派と鋭く対立した。
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