公武合体派とは? わかりやすく解説

公武合体

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 10:21 UTC 版)

公武合体(こうぶがったい、旧字体: 公󠄁武合體)は、幕末1850年代から1860年代)の日本において、朝廷)の伝統的権威と、幕府及び諸藩()を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論、政治運動をいう。公武合体策[注釈 1]公武合体論公武合体運動公武一和(こうぶいちわ)とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 『社会科 中学生の歴史』(帝国書院。平成17年3月30日文部科学省検定済。教科書番号:46 帝国 歴史-713)p 144に「桜田門外の変ののち, 幕府は, 朝廷を利用して権威の回復をめざす公武合体策をうち出し, 孝明天皇の妹を14代将軍徳川家茂の夫人としました。」と記載され、『日本史B』(実教出版。高等学校地理歴史科用。平成14年1月25日発行。平成9年3月31日 文部科学省検定済。教科書番号:7実教 日B582)p 225に、「大老を暗殺された幕府は, 朝廷との関係を回復して反幕勢力をおさえるため, 朝廷と幕府の融和をめざす公武合体策をすすめた。」と記載されている。
  2. ^ 1858年(安政5年)頃、大老井伊直弼の腹心である彦根藩長野義言と、同藩士宇津木景福との間の手紙に示された、朝廷統制策が起源と考えられている[2]
  3. ^ 実際の婚儀は1862年(文久2年)。
  4. ^ 公式記録への記述にはなく証言は後年の浅野長勲のもののみ。詳しくは小御所会議を参照。

出典

  1. ^ 箱石2001、pp.37-38。
  2. ^ 小西1984、p.208。
  3. ^ 佐々木1998、p.29。
  4. ^ 井上2006、pp.52-53。
  5. ^ 井上2006、p.68。
  6. ^ 佐々木1998、p.72。
  7. ^ 佐々木1998、p.74。


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公武合体派

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公武合体」の記事における「公武合体派」の解説

一方越前藩松平慶永(春嶽)、薩摩藩島津斉彬久光ら公武合体派の有力者からは、朝幕の連携加え外様藩をも含めた有力諸藩力を合わせて挙国一致体制を築くことが主張された。 詳細は「公議政体論」を参照 これは従来譜代大名就任する老中制に変革を迫るものであり、保守的な幕閣との摩擦避けられないものであったばかりか幕府中心公武合体政策とも次第齟齬きたした。彼らは通商条約の異勅調印には批判的であったものの、開国通商容認論が大勢占めており、戦争辞さぬ破約攘夷唱える尊王攘夷急進派鋭く対立した

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