公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)
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「幕末」の記事における「公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)」の解説
井伊直弼の死から、幕閣は久世広周(関宿藩主)と安藤信正(磐城平藩主)が実質上の首班となって運営された。幕府は朝廷の権威により幕威を回復せんと公武合体を推進。万延元年4月12日(1860年6月1日)、皇女和宮親子内親王の徳川家茂への降嫁を朝廷へ奏請したが、孝明天皇は帥宮熾仁親王との婚約を命じており拒絶をした。幕府は請願を繰り返しつづけ、孝明帝の侍従であった岩倉具視は公武合体を通じて穏やかに王政回復の機会を得るべきと進言した。幕府が「七八カ年乃至十カ年」という期限をつけて条約破棄か武力撃攘を約束したことで孝明天皇は降嫁を認め、和宮は文久元年11月15日(1861年12月16日)に江戸城に入った。孝明天皇は幕府の外交措置を信頼しようとするが廃帝を画策しているとの噂が立っており、勅使として岩倉と千草有文が関東へ下向。徳川家茂より自筆で忠誠を誓う誓書を書かせた。文久2年4月7日(1862年5月5日)、孝明天皇は幕府と決めた期限に必ず攘夷を為す意思を明らかとした。結果として幕府は自らの約束に縛られる結果となった。 安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港した。居留地が置かれ外国人が住居往来したがキリスト教の日本への布教は認められていなかった。貿易は生糸、茶が輸出され、綿糸、織物が輸入された。国内と国外の金貨銀貨はそれぞれ同一質量で交換されたが、日本の金銀比価の問題より短期間に大量の金、一説に10万両と云われる大量の金の海外流出を招いた。万延元年4月10日(1860年5月30日)、幕府は万延小判を発行して混乱に対応した。しかし従来の天保小判に比して金の量を約1/3とした万延小判は既存の小判を含有金量に応じて増歩通用としたため混乱を招いた。横浜商人など利益を得た者がいたが、地廻り経済圏の在郷商人は生産地より江戸の問屋に物資を廻送せず品不足と物価高騰が発生した結果、都市の打ち壊しや地方の一揆が激増した。経済の混乱のため五品江戸廻送令が出されるがイギリスは生糸の輸出制限に不満を募らせた。今日から見ると珍しく輸出にも関税をかけていたが関税収入を幕府が独占したため西南雄藩は不満を持った。こうした問題は薩英戦争後に英国と薩摩藩が接近していく素地となり、横浜鎖港と兵庫開港にみられる貿易統制をめぐる幕府と雄藩との軋轢を生む要因となった。 他方、外交では、横浜での貿易が盛んに行われるなかで、1861年2月にロシア軍艦ポサドニック号が占領を企てて対馬に滞泊するロシア軍艦対馬占領事件が発生する。ロシア側が芋崎に兵舎を建設して付近の永久租借権を要求する事態に発展し、対馬藩や島民が抵抗して、幕府も外国奉行の小栗忠順を派遣し撤退を求めた。しかし、ロシア艦は動かず、結局イギリス公使オールコックの協力の申し出によりイギリス艦2隻が派遣され、8月にようやく退去した。 幕府の公武合体が停滞する中で大名は中央政界に国論を引っ提げて乗り出した。長州藩は長井雅楽を京都へおくり「航海遠略策」の建白書を朝廷へ上らせ、長井は文久元年6月2日(1861年7月9日)に御嘉納されたことを伝えられ御製の和歌を賜った。また同年8月3日(1861年9月7日)に安藤信正と面会し自論を述べる機会を得た。長州藩の公武周旋の動きは薩摩藩を刺激した。文久2年、京都所司代の酒井忠義を無視するかのように続々と志士が入京した。彼らは和宮降嫁を主導した酒井や関白・内覧九条尚忠といった公武合体派を敵視していた。真木和泉、久坂玄瑞を中核とする草の根のネットワークが形成されオルグ活動では清河八郎の九州遊説が貢献した。関東の雄藩である水戸藩では井伊暗殺の実行者を追討する一方、激派の要人を参政に登用する形で安定を図った。しかし攘夷の意思が固い激派は長州藩の桂小五郎、松島剛蔵と提携し実力行使による幕政改革を志向していたが、長州藩は航海遠略策が藩論となり動きがとれなくなった。激派は宇都宮藩の大橋訥庵と提携し文久2年1月15日(1862年2月13日)、安藤信正を江戸城坂下門外で襲撃した。安藤は負傷し命は助かったものの後に失脚した(→坂下門外の変)。幕府から睨まれた宇都宮藩は蒲生君平が踏破調査(山陵志)をしていた天皇陵を修補するという奇策を用いて公武の間に運動をしていくが、当然に治定としては矛盾が続いている。また、過激尊攘志士による「異人斬り」が横行した。安政6年にロシア使節の護衛艦隊の乗組員が襲撃されて2名が死亡し、同7年にはオランダ船長と商人が殺害されたほか、万延元年にはアメリカ公使ハリスの通訳ヒュースケンが薩摩藩士に襲撃され、命を落とした。また、文久元年には水戸藩士がイギリス公使館を襲う東禅寺事件が勃発した。 文久2年4月16日(1862年5月14日)、薩摩藩の最高実力者である島津久光は公武合体を実現すべく藩兵を率いて上京した。事前に大久保一蔵を使者にたて上京の勅許奏請を工作したが婉曲に断られ、天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意欲のもと独断で京都へのぼった。志士の動向に怯えていた朝廷は久光へ浪士鎮撫の勅命を与えた。一方久光は前左大臣の近衛忠煕に開国・軍備増強を建白した。ただ、気がかりは薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であり、有馬新七は薩摩藩を尊攘派に引きずりこむためにテロを計画し酒井所司代と九条関白を対象とした。久光は彼らに監視をつけて説得にあたらせたが、尊王攘夷派が上京して船宿に入ったため、やむなく粛清を行った(→寺田屋騒動)。 久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職、松平春嶽を政事総裁職とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた。そして、幕政に返り咲いた慶喜・春嶽や、春嶽のブレインである横井小楠らにより、松平容保(会津藩主)の京都守護職任命や、参勤交代制の改革などが行われた(→文久の改革)。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中の1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦村で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→生麦事件)。イギリス側は犯人の処刑を要求するが、国父の久光が開国論でありながら内部では未だ開国論に統一されていない薩摩藩では、この要求に従うことができず、後に禍根を残すこととなる。その後、京都へ凱旋した久光だが京都は尊王攘夷派に政局が占拠されており、長州藩では桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ藩論は尊王攘夷へ転換されていた。憤りが収まらない久光は鹿児島へ引き上げた。 尊王攘夷派に占拠された京都では、長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を強要した。土佐藩に関しては、藩主の山内豊範が土佐勤王党の武市瑞山らを率いて上京しており、長州藩と密接な連絡をとって朝廷に働きかけていた。こうした運動が実を結び、三条実美・姉小路公知が江戸に下り、幕府に攘夷決行と将軍上洛を督促した。幕府内では、御側御用取次の大久保一翁が開国論を説いて朝廷に拒否されたならば大政奉還をせよと主張したため左遷され、幕閣は将軍上洛を受け入れることを決めた。そして、1863年4月21日(文久3年3月4日)、家茂は将軍としては200年ぶり(3代家光以来)に京都に入ったが、朝廷のペースに巻き込まれ、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもっての攘夷決行を約束させられてしまう。但し、幕府は攘夷を武力行使ではなく条約の撤回と解釈し、老中の小笠原長行(唐津藩世子)が、独断というかたちで生麦事件の賠償金を支払う一方、横浜からの一時退去を諸外国に申し入れたが、これを拒否されている。 他方、攘夷決行の日である6月25日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし20日後にアメリカ合衆国、さらにその4日後にはフランスからの報復攻撃を受け砲台を占拠されるなど、攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→下関戦争)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊を結成、それに続いて諸隊が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから1863年8月15日(文久3年7月2日)、薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→薩英戦争)。薩英戦争では、イギリス艦隊による鹿児島城下砲撃と、それに反撃する薩摩藩砲兵との間で戦闘が発生した。イギリス側の人的被害が大きかった一方、鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟り、藩論を開国に統一することとなった。この交渉によりイギリスは薩摩藩が実は開国論に立っていることを知り、以後薩摩藩と急速に接近していくこととなる。
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