公武合体策と尊王攘夷派の擡頭とは? わかりやすく解説

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公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:21 UTC 版)

幕末」の記事における「公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)」の解説

井伊直弼の死から、幕閣久世広周関宿藩主)と安藤信正磐城平藩主)が実質上の首班となって運営された。幕府朝廷権威により幕威を回復せんと公武合体推進万延元年4月12日(1860年6月1日)、皇女和宮親子内親王徳川家茂への降嫁朝廷奏請したが、孝明天皇帥宮熾仁親王との婚約命じており拒絶をした。幕府請願繰り返しつづけ、孝明帝侍従であった岩倉具視公武合体通じて穏やかに王政回復機会を得るべきと進言した。幕府が「七八カ年乃至カ年」という期限をつけて条約破棄武力撃攘約束したことで孝明天皇降嫁認め和宮文久元年11月15日(1861年12月16日)に江戸城入った孝明天皇幕府外交措置信頼しようとする廃帝画策しているとの噂が立っており、勅使として岩倉千草有文関東下向徳川家茂より自筆忠誠を誓う誓書を書かせた。文久2年4月7日(1862年5月5日)、孝明天皇幕府決めた期限に必ず攘夷為す意思を明らかとした。結果として幕府は自らの約束縛られる結果となった安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港開港した居留地置かれ外国人住居往来したキリスト教日本への布教認められていなかった。貿易生糸輸出され綿糸織物輸入された。国内国外金貨銀貨それぞれ同一質量交換されたが、日本金銀比価問題より短期間大量の金、一説10万両と云われる大量の金の海外流出招いた万延元年4月10日1860年5月30日)、幕府万延小判発行して混乱対応した。しかし従来天保小判比して金の量を約1/3とした万延小判既存小判含有金量に応じて増歩通用したため混乱招いた横浜商人など利益得た者がいたが、地廻り経済圏在郷商人生産地より江戸問屋物資廻送せず品不足物価高騰発生した結果都市打ち壊し地方一揆激増した経済混乱のため五品江戸廻送令出されるイギリス生糸輸出制限に不満を募らせた。今日から見ると珍しく輸出にも関税をかけていたが関税収入幕府独占したため西南雄藩は不満を持ったこうした問題薩英戦争後に英国薩摩藩接近していく素地となり、横浜鎖港兵庫開港みられる貿易統制をめぐる幕府雄藩との軋轢生む要因となった他方外交では、横浜での貿易盛んに行われるなかで、1861年2月ロシア軍艦ポサドニック号が占領企てて対馬に滞泊するロシア軍艦対馬占領事件発生するロシア側が崎に兵舎建設して付近永久租借要求する事態発展し対馬藩島民抵抗して幕府外国奉行小栗忠順派遣し撤退求めた。しかし、ロシア艦は動かず結局イギリス公使オールコック協力申し出によりイギリス艦2隻が派遣され8月にようやく退去した。 幕府公武合体停滞する中で大名中央政界国論引っ提げて乗り出した長州藩長井雅楽京都へおくり「航海遠略策」の建白書朝廷へ上らせ、長井文久元年6月2日(1861年7月9日)に御嘉納されたことを伝えられ御製和歌賜った。また同年8月3日(1861年9月7日)に安藤信正面会し自論述べ機会得た長州藩公武周旋動き薩摩藩刺激した文久2年京都所司代酒井忠義無視するかのように続々志士入京した。彼らは和宮降嫁主導した酒井関白内覧九条尚忠といった公武合体派敵視していた。真木和泉久坂玄瑞中核とする草の根ネットワーク形成されオルグ活動では清河八郎九州遊説貢献した関東雄藩である水戸藩では井伊暗殺実行者追討する一方、激派の要人参政登用する形で安定図った。しかし攘夷意思固い激派は長州藩桂小五郎松島剛蔵提携し実力行使による幕政改革志向していたが、長州藩航海遠略策藩論となり動きがとれなくなった。激派は宇都宮藩大橋訥庵提携し文久2年1月15日(1862年2月13日)、安藤信正江戸城坂下門外で襲撃した安藤負傷し命は助かったものの後に失脚した(→坂下門外の変)。幕府から睨まれ宇都宮藩蒲生君平踏破調査山陵志)をしていた天皇陵修補するという奇策用いて公武の間に運動をしていくが、当然に治定としては矛盾続いている。また、過激尊攘志士による「異人斬り」が横行した安政6年ロシア使節護衛艦隊乗組員襲撃されて2名が死亡し、同7年にはオランダ船長商人殺害されたほか、万延元年にはアメリカ公使ハリス通訳ヒュースケン薩摩藩士に襲撃され命を落としたまた、文久元年には水戸藩士イギリス公使館を襲う東禅寺事件勃発した文久2年4月16日(1862年5月14日)、薩摩藩の最高実力者である島津久光公武合体実現すべく藩兵を率いて上京した事前に大久保一蔵使者にたて上京勅許奏請工作した婉曲に断られ天朝危機に、勅命奉じて幕政改革実行させる意欲のもと独断京都のぼった志士動向怯えていた朝廷久光浪士鎮撫勅命与えた一方久光は前左大臣近衛忠煕開国軍備増強建白した。ただ、気がかり薩摩藩内の尊王攘夷派暴発であり、有馬新七薩摩藩尊攘派引きずりこむためにテロ計画し酒井所司代九条関白対象とした。久光は彼らに監視をつけて説得にあたらせたが、尊王攘夷派上京して船宿入ったため、やむなく粛清行った(→寺田屋騒動)。 久光朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く安政の大獄失脚した徳川慶喜将軍後見職松平春嶽政事総裁職とするなどの人事を含む改革余儀なくされた。そして、幕政返り咲いた慶喜・春嶽や、春嶽のブレインである横井小楠らにより、松平容保会津藩主)の京都守護職任命や、参勤交代制改革などが行われた(→文久の改革)。いっぽう久光率い薩摩藩兵は帰国途中1862年9月14日文久2年8月21日生麦村行列横断しようとした英国人斬りつける事件起こす(→生麦事件)。イギリス側犯人処刑要求するが、国父久光開国論ありながら内部では未だ開国論統一されていない薩摩藩では、この要求に従うことができず、後に禍根を残すこととなる。その後京都凱旋した久光だが京都尊王攘夷派政局占拠されており、長州藩では久坂真木和泉のため長井失脚させられ藩論尊王攘夷転換されていた。憤り収まらない久光鹿児島引き上げた尊王攘夷派占拠され京都では、長州藩土佐藩尊王攘夷派朝廷圧力利用して将軍上洛運動強要した土佐藩に関しては、藩主山内豊範土佐勤王党武市瑞山らを率いて上京しており、長州藩密接な連絡をとって朝廷働きかけていた。こうした運動実を結び三条実美姉小路公知江戸下り幕府攘夷決行将軍上洛督促した幕府内では、御側御用取次大久保一翁開国論説いて朝廷拒否されたならば大政奉還をせよと主張したため左遷され幕閣将軍上洛受け入れることを決めた。そして、1863年4月21日文久3年3月4日)、家茂将軍として200年ぶり(3代家光以来)に京都入ったが、朝廷ペース巻き込まれ1863年6月25日文久3年5月10日をもって攘夷決行約束させられてしまう。但し、幕府攘夷武力行使ではなく条約撤回解釈し老中小笠原長行唐津藩世子)が、独断というかたちで生麦事件賠償金支払一方横浜からの一時退去諸外国申し入れたが、これを拒否されている。 他方攘夷決行の日である6月25日長州藩久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡通過する外国商船砲撃加える。しかし20日後にアメリカ合衆国、さらにその4日後にはフランスからの報復攻撃を受け砲台占拠されるなど、攘夷困難さ身をもって知ることとなる(→下関戦争)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊結成、それに続いて諸隊次々と結成され、後の長州藩武力となっていく。また、生麦事件賠償問題こじれたことから1863年8月15日文久3年7月2日)、薩摩藩英国の間にも戦争勃発(→薩英戦争)。薩英戦争では、イギリス艦隊による鹿児島城下砲撃と、それに反撃する薩摩藩砲兵との間で戦闘発生したイギリス側人的被害大きかった一方鹿児島市街の一部焼失し薩摩藩もまた攘夷不可能性を悟り藩論開国統一することとなった。この交渉によりイギリス薩摩藩が実は開国論立っていることを知り以後薩摩藩急速に接近していくこととなる。

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