条約破棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 15:10 UTC 版)
日本敗色が濃厚になりつつある1945年(昭和20年)4月5日に「1946年4月24日に期間満了するソ日中立条約を延長しない(ソ連側は「破棄」と表現)」とソ連政府は日本政府に通達。背景にはヤルタ会談にて「秘密裏に対日宣戦が約束されていたこと」がある。さらに、ポツダム会談で、ソ連は「ソ日中立条約の有効期間中である」としてアメリカと他の連合国がソ連政府に「対日参戦の要請文書を提示すること」を要求した。 これに対して、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはソ連首相ヨシフ・スターリンに送った書簡の中で、連合国が署名したモスクワ宣言(1943年)や「国連憲章103条・106条」などを根拠に、「ソ連の参戦は平和と安全を維持する目的で国際社会に代わって共同行動をとるために他の大国と協力するものであり、国連憲章103条に従えば憲章の義務が国際法と抵触する場合には憲章の義務が優先する」という見解を示した。 この回答はソ連の参戦を望まなかったトルーマンやジェームズ・F・バーンズ国務長官が、国務省の法律専門家であるジェームズ・コーヘンから受けた助言をもとに提示したものであり、法的な根拠には欠けていた。 「通達後においても条約は有効」と日本側は解釈して、仲介・和平工作をソ連に依頼したがソ連は受容せず密約どおり対日参戦する。 ソ連は1945年(昭和20年)8月8日(モスクワ時間17時、満州との国境地帯であるザバイカル時間23時)に突如、ポツダム宣言への参加を表明した上で「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告、条約を事実上破棄した。9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し(ソ連対日参戦)、南樺太・千島列島および満洲国・朝鮮半島北部等に侵攻。 この時、駐ソ日本大使館から本土に向けての電話通信回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。 具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、 本条約は 両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらるべく 且5年の期間効力を有すべし両締約国の何れの一方も右期間満了の1年前に本条約の廃棄を通告せざるときは 本条約は次の5年間自動的に延長せらるものと認めらるべし — 大日本帝國及ソヴィエト社會主義共和國聯邦間中立條約、第三條 とされ、前半部にて、本条約はその締結により5年間有効とされており、当該期間内の破棄その他条約の失効に関する規定は存在しない。期間満了の1年前までに廃棄通告がなされた場合には、後半部に規定される5年間の自動延長(6年目から満10年に相当する期間)が行われなくなり、条約は満5年後に終了すると解するのが妥当と解釈される。 ソ連側は、関東軍特種演習(通称:関特演)による日本の背信行為によって既に条約は日本側により破棄されたという見解を示していた。 しかしヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決定した後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年間は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めている。 さらに、日ソ中立条約が破棄されるまで、ソ連は日本政府に対して日本が中立条約に違反しているとの抗議を一度もしたことがない。極東国際軍事裁判の決定については、判事団中には当事国・戦勝国としてのソ連から派遣された判事が存在し、裁判機関が全員連合国の国民ないし出身者らにより構成されているので、公平性・中立性の観点から問題があるとの評価もある。 極東国際軍事裁判など戦後裁判の審決を受諾したサンフランシスコ講和条約(1951年9月8日署名、1952年4月28日発効)にソ連側全権は出席せず署名もしていない。
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