条約策定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:30 UTC 版)
詳細は「パリ講和会議」を参照 講和条約の詳細策定は、1919年1月18日からパリにおいて開催されたパリ講和会議で行われた。ウィルソン、デビッド・ロイド・ジョージイギリス首相、ジョルジュ・クレマンソーフランス首相ら連合国首脳が6か月にわたって会議を行ったが、まず連合国間で講和条件を話し合うべきとするイギリス・フランスの主張と、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊してその後の政府が選出されないという混乱もあったため、ドイツ代表は講和会議に招待されなかった。 講和会議の協議ではドイツに大きな負担を負わせ、自国の安全保障を図ろうとするクレマンソーの主張と、行き過ぎた懲罰に反対し、自らの「公正な講和」概念を貫こうとするウィルソンの二つの路線が対立した。またロイド・ジョージはヨーロッパの勢力均衡をとろうとする意図からフランスほど強硬ではなかったが、多くの戦費や債務をドイツ賠償で補おうとする点では変わらなかった。さらに連合国が支払った膨大な戦費や損害、そのためにアメリカから借り入れた債務、そして賠償とドイツに対する懲罰を要求する英仏両国の世論も会議に影響を与えた。条約は秘密の中で作成され、4月後半にはドイツへの提示案が完成したが、これを事前に公表すればドイツが応じることはなく、また過激派の力が増大することが危惧されていた。協議の結果、ドイツ提示後に概略を公表することとなった。
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