条約締結とその影響
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「パリ条約 (1812年)」の記事における「条約締結とその影響」の解説
同盟条約は1812年2月24日に署名された。プロイセンは国境線をフランス軍に開放、フランスの大陸軍に20,842人の軍勢を派遣、数千の荷馬と荷車など食料を提供した。1807年7月9日のティルジットの和約の補足書にあたる1808年9月8日のパリ協定ではプロイセン軍(英語版)の人数制限を4万2千人に定めたため、派遣軍はプロイセン軍のほぼ半分にあたる。その代わり、プロイセンはロシアからわずかな領地を得ることが定められた。フランス軍がプロイセン辺境まで迫ってきたため、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は3月5日に条約を批准した。もし彼が批准しなかった場合、フランスは確実にプロイセンに侵攻していた。これに対し、3月に締結された仏墺同盟(英語版)のオーストリアに対する負担ははるかに軽く、オーストリアがナポレオンを裏切ってロシアに戦闘をできるだけ回避したいと伝えることができた。 条約批准の後、プロイセン軍士官の4分の1にあたる300人が辞任し、大半がロシアへ逃亡した。一部にはスペインやイギリスへ向かった者もいた。シャルンホルストはそれまでのプロイセン軍制改革(英語版)を推進していたが、このときは軍事顧問には留任しつつ、参謀総長の職を辞めて上シレジア(英語版)へ向かった。彼の助手で軍事作家のカール・フォン・クラウゼヴィッツ、およびヘルマン・フォン・ボイエン(英語版)は出国してロシアへ向かった。アウグスト・フォン・グナイゼナウは「わたしたちは相応しい運命を迎えるだろう。国はその政府と同じぐらい悪い、という事実に直面するわたしたちは、恥をかくだろう。王は座ったことのない王位の傍に立つだろう。」と王を批判し、辞任してイギリスへ向かった。プロイセンの警察総長ユストゥス・フォン・グルーナー(ドイツ語版)はすでにプラハに亡命していたハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインと合流し、自身の安全のためにオーストリアの牢獄に入られた。彼は条約の公表以前にプロイセンにおける反フランス感情を煽ったとして起訴されていた。戦争の勃発後、シュタインはプラハからサンクトペテルブルクへ移動した。亡命士官たちはスペインの1808年蜂起(英語版)という成功例、およびイギリスによる第六次対仏大同盟に希望を寄せた。
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