尊攘志士とは? わかりやすく解説

尊王攘夷

(尊攘志士 から転送)

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尊王攘夷(そんのうじょうい、尊皇攘夷)とは、天皇を尊び外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している[1]


  1. ^ 尾形勇『歴史学事典』【第7巻 戦争と外交】p447
  2. ^ 尾藤正英「水戸学の特質」、『日本思想大系53 水戸学』、岩波書店、1973年(昭和48年)、558 - 559頁。
  3. ^ 上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。


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尊攘志士

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山縣有朋」の記事における「尊攘志士」の解説

安政5年1858年7月時勢を学ぶためとして、山縣を含む6人の若者京都派遣されることとなった派遣された6名のうち、4人は杉山伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を始めとする松下村塾塾生であり、山縣選ばれたのは杉山吉田松陰推薦したためであるという。京都では尊王攘夷派大物であった久坂玄瑞梁川星巌梅田雲浜らに感化され尊皇攘夷思想をいだき、10月の帰藩後に久坂紹介吉田松陰松下村塾入塾した。しかし翌月には松陰謹慎の身となり、まもなく獄に下り刑死することになった山縣松陰から大きな影響受けた語り生涯松陰先生門下生」と称し続けた入塾間もない山縣咎めはなかったが、他の塾生入獄させないよう藩の重役直談判するなどしている。 万延元年1860年)には薩摩藩動向を探るため、書状届け役として薩摩潜入しているが、警戒厳しく薩摩弁理解できなかったために役目十分に果たせなかった。この年には父有稔が病没している。 文久3年1863年1月3日には「尊皇攘夷」の正義わきまえていると賞され終身士分取り立てられた。2月再度京都向かい滞在中に高杉晋作出会い親しくなった。その後リウマチ患って療養していたが、9月頃からは高杉創設した奇兵隊関与するようになり、12月23日3代目総管赤禰武人のもとで、副官に当たる奇兵隊軍監壇ノ浦支営の司令就任し兵隊訓練壇ノ浦警備励んだ

※この「尊攘志士」の解説は、「山縣有朋」の解説の一部です。
「尊攘志士」を含む「山縣有朋」の記事については、「山縣有朋」の概要を参照ください。

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