尊王攘夷
尊攘志士
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安政5年(1858年)7月、時勢を学ぶためとして、山縣を含む6人の若者が京都に派遣されることとなった。派遣された6名のうち、4人は杉山と伊藤俊輔(のちの伊藤博文)を始めとする松下村塾の塾生であり、山縣が選ばれたのは杉山が吉田松陰に推薦したためであるという。京都では尊王攘夷派の大物であった久坂玄瑞・梁川星巌・梅田雲浜らに感化されて尊皇攘夷思想をいだき、10月の帰藩後に久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾した。しかし翌月には松陰は謹慎の身となり、まもなく獄に下り刑死することになった。山縣は松陰から大きな影響を受けたと語り、生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。入塾間もない山縣に咎めはなかったが、他の塾生を入獄させないよう藩の重役に直談判するなどしている。 万延元年(1860年)には薩摩藩の動向を探るため、書状の届け役として薩摩に潜入しているが、警戒が厳しく薩摩弁も理解できなかったために役目を十分に果たせなかった。この年には父有稔が病没している。 文久3年(1863年)1月3日には「尊皇攘夷」の正義をわきまえていると賞され、終身の士分に取り立てられた。2月に再度京都へ向かい、滞在中に高杉晋作と出会い親しくなった。その後はリウマチを患って療養していたが、9月頃からは高杉が創設した奇兵隊に関与するようになり、12月23日に3代目総管・赤禰武人のもとで、副官に当たる奇兵隊軍監と壇ノ浦支営の司令に就任し、兵隊訓練と壇ノ浦警備に励んだ。
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