急務三策と浪士組結成
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倒幕運動を続けるため、京に潜伏したり諸国を回り、田中河内介に続いて九州遊説に入った。筑後国の水田天満宮付近の山梔窩に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し、福岡藩士の平野国臣、小郡、肥後の尊皇攘夷派とも接触。その戦略は薩摩藩の率兵上京に期待を寄せるものであり、薩摩は立つと諸国を遊説したが、小松清廉は一切の言質を与えていない。『近世日本国民史』では京都に参集した尊皇攘夷派は、清河の空想的政局論により集められた一面があるとしている。 その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁職)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組結成が許可された(234名)。上手く幕府を出し抜いて、今度は佐幕派を京に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率い京へ出発。到着した夜に浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留、袂を分かった。翌日、200名の手勢を率い朝廷に建白書の上申を願い出で、幸運にも受理された。 このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻す。江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。 同年4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布赤羽橋(現麻布十番商店街そば)で首を討たれた。享年34。『女士道』(山岡英子 1903年)の記述によると首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し伝通院に葬ったが後に遺族に渡したという。墓所は東京文京区の伝通院にある。死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。明治41年(1908年)、特旨により正四位を贈位された。
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