急務三策と浪士組結成とは? わかりやすく解説

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急務三策と浪士組結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 03:26 UTC 版)

清河八郎」の記事における「急務三策と浪士組結成」の解説

倒幕運動続けるため、京に潜伏したり諸国回り田中河内介続いて九州遊説入った筑後国水田天満宮付近の山窩に蟄居中の真木保臣の下にも滞在し福岡藩士平野国臣小郡肥後尊皇攘夷派とも接触。その戦略薩摩藩の率兵上京期待寄せるものであり、薩摩は立つと諸国遊説したが、小松清廉一切言質与えていない。『近世日本国民史』では京都参集した尊皇攘夷派は、清河空想的政局論により集められ一面があるとしている。 その後山岡鉄舟らを通して松平春嶽幕府政事総裁職)に急務三策(1. 攘夷断行、2. 大赦発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士手を焼いていた幕府はこれを採用し松平忠敏のもとに浪士組結成許可された(234名)。上手く幕府出し抜いて今度佐幕派を京に集め出した文久3年1863年2月23日将軍徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組率い京へ出発到着した夜に浪士壬生新徳寺集め本当目的将軍警護でなく尊王攘夷先鋒にあると述べる。鵜殿鳩翁浪士組隊士殿内義雄家里次郎両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめ依頼し攘夷反対した根岸友山芹沢鴨近藤勇土方歳三らが残留袂を分かった翌日200の手勢を率い朝廷建白書の上申を願い出で、幸運に受理された。 このような浪士組動静に不安を抱いた幕府は、浪士組江戸へ呼び戻す江戸戻ったあと浪士組動かそうとするが、京都で完全に幕府対立していたため狙われていた。 同年4月13日幕府刺客佐々木只三郎窪田泉太郎など6名によって麻布赤羽橋(現麻布十番商店街そば)で首を討たれた。享年34。『女士道』(山岡英子 1903年)の記述によると首は石坂周造取り戻し山岡英子山岡鉄舟の妻)が保管し伝通院葬ったが後に遺族渡したという。墓所東京文京区伝通院にある。死後幕府浪士組新徴組改名し庄内藩預かりとした。明治41年1908年)、特旨により正四位贈位された。

※この「急務三策と浪士組結成」の解説は、「清河八郎」の解説の一部です。
「急務三策と浪士組結成」を含む「清河八郎」の記事については、「清河八郎」の概要を参照ください。

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