尊攘英断録
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肥後の松村家に戻った国臣は後に「人斬り彦斎」の異名を持つ河上彦斎と交流している。福岡藩の探索を察した国臣は河上の手引きで天草へ移り、『尊攘英断録』を著わした。公武合体ではもはや時局に対応できず、薩摩藩など大藩が天皇を奉じて討幕の兵を挙げるべしとの過激な内容であった。真木和泉は大いに感銘し、国臣を訪ねた清河八郎などはこれを島津久光に献じるよう勧めている。 国臣は鹿児島に潜入。大久保に『英断録』を差し出した。大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。薩摩滞在中に村田新八、美玉三平ら急進派と会談し、一挙の成功を確信した。国臣が肥後へ戻ると「島津久光が討幕の兵を挙げる」との噂が広まった。 文久2年(1862年)3月、久光は藩士1,000人を率いて上京の途についた。噂を信じた尊攘浪士が京、大坂に集まり、不穏な情勢となる。国臣そして有馬新七ら誠忠組の急進派もこの機に兵を挙げるつもりでいた。ところが、久光には討幕の意思なぞなく、上洛は公武合体の運動のためだった。4月になって急進派の動きを知った久光は驚き、直ちに鎮撫させるか従わなければ上意討ちするよう命じた。 4月23日、鎮撫に遣わされた奈良原繁、大山綱良ら9人と急進派が寺田屋で斬り合いになり、有馬ら6人が死亡し、他は捕縛され薩摩へ送り返された。(寺田屋騒動) 国臣はこれより前の4月12日に参勤交代の途上で大坂の近くまで来ていた福岡藩主・黒田斉溥へ情勢の不穏と、挙兵への協力を訴える嘆願を提出すべく、藩公行列に出頭していた。驚いた福岡藩の役人はとりあえず国臣を旅館へ案内してもてなしたが、そこへ薩摩藩の捕吏が押し込み国臣を捕縛してしまった。浪人嫌いの久光の命令であった。 国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く桝小屋獄の牢屋へ入れられてしまった。
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