尊攘英断録とは? わかりやすく解説

尊攘英断録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:34 UTC 版)

平野国臣」の記事における「尊攘英断録」の解説

肥後松村家に戻った国臣は後に「人斬り彦斎」の異名を持つ河上彦斎交流している。福岡藩探索察した国臣は河上の手引きで天草移り、『尊攘英断録』を著わした。公武合体ではもはや時局に対応できず、薩摩藩など大藩天皇奉じて討幕兵を挙げるべしとの過激な内容であった真木和泉大い感銘し、国臣を訪ねた清河八郎などはこれを島津久光献じるよう勧めている。 国臣は鹿児島潜入大久保に『英断録』を差し出した大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。薩摩滞在中に村田新八美玉三平急進派会談し一挙成功確信した。国臣が肥後へ戻ると「島津久光討幕兵を挙げる」との噂が広まった文久2年1862年3月久光藩士1,000人を率いて上京の途についた。噂を信じた尊攘浪士が京、大坂集まり不穏な情勢となる。国臣そして有馬新七誠忠組急進派この機に兵を挙げるつもりでいた。ところが、久光には討幕意思なぞなく、上洛公武合体運動のめだった4月になって急進派動き知った久光驚き直ち鎮撫させるか従わなければ上意討ちするよう命じた4月23日鎮撫遣わされ奈良原繁大山綱良ら9人と急進派寺田屋斬り合いになり、有馬ら6人が死亡し、他は捕縛され薩摩送り返された。(寺田屋騒動) 国臣はこれより前の4月12日参勤交代途上大坂近くまで来ていた福岡藩主・黒田斉溥情勢不穏と、挙兵への協力訴え嘆願提出すべく、藩公行列に出頭していた。驚いた福岡藩役人とりあえず国臣を旅館案内してもてなしたが、そこへ薩摩藩捕吏押し込み国臣を捕縛してしまった。浪人嫌いの久光命令であった。 国臣は福岡藩引き渡され福岡送り返されることになった尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件急進派一網打尽にされるや扱い一変し手荒く小屋獄の牢屋入れられてしまった。

※この「尊攘英断録」の解説は、「平野国臣」の解説の一部です。
「尊攘英断録」を含む「平野国臣」の記事については、「平野国臣」の概要を参照ください。

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