ヒュースケン暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:57 UTC 版)
安政7年(1860年)3月、桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、島津久光は江戸に国老関山糺を派遣して形勢を観察させた。この際、小松帯刀・大久保利通らにより伊牟田も江戸に随行することとなる。江戸では水戸藩士や清河八郎・安積五郎・山岡鉄太郎と交流を持ち、清河八郎が結成した「虎尾の会」にも名を連ねる。万延元年(1860年)12月にはアメリカ公使館員のヘンリー・ヒュースケンを暗殺した。 その後幕府の警戒が強まり、文久元年(1861年)5月、清河と共に江戸を出て、川越の西川敬輔(練造)の元に潜伏。その後更に水戸へ赴き、住谷寅之介の元に潜伏。水戸では、水戸藩士・薩摩藩士で蹶起して京に入り、朝命を奉ることを決議する。また、老中・安藤信正が塙忠宝に廃帝の故事を調査させ、和宮親子内親王の降嫁を図っているとの情報を得て、義挙のため11月に京都に赴く。京都で田中河内介を訪ね、九州の志士を集め、関東の志士と共に蹶起して討幕・攘夷を行うことを決め、清河や安積と共に肥後へ入り、松村大成・平野国臣・真木和泉らと義挙を計画する。 文久2年(1862年)1月、平野と共に薩摩へ戻り、島津久光に「尊攘英断録」を呈した。また、福岡藩主で久光の大叔父である黒田斉溥が久光の義挙を止めようとしていることを聞き、平野と共に播磨国大蔵谷に赴いて斉溥を説得しようとするが、斉溥は伊牟田の行動を過激であるとして薩摩へ連れ帰り、喜界島に流罪に処された。 元治元年(1864年)3月、罪を赦免されて種子島に移る。その後、召喚されて京都に入り、西郷隆盛の元に寓する。
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