ヒュースケン殺害事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:40 UTC 版)
「幕末の外国人襲撃・殺害事件」の記事における「ヒュースケン殺害事件」の解説
ヘンリー・ヒュースケンは安政3年(1856年)からタウンゼント・ハリスの秘書兼通訳を務めていた。ヒュースケンは有能な通訳で、ハリスは他国の外交交渉にもヒュースケンを貸し出していた。万延元年12月4日(1861年1月14日)にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去した。幕府はヒュースケンの母・ジョアンネ(ヨアンナ)に1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させた。ヒュースケンは有名人であり、事態を重く見た幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり、外国御用出役を新設するなど外国人警護に努めたが、その後も外国人に対する襲撃事件は続いた。
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