兵庫開港
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1858年7月29日(安政5年6月19日)、江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結した。江戸幕府は同条約第6条において日本におけるアメリカの領事裁判権を認め、第3条において1863年1月1日(文久2年11月12日)に兵庫(兵庫津。かつての大輪田泊)を条約港として開港し、外国人の居住・経済活動のために貸与する一定の地域(外国人居留地)を設けることを約した。江戸幕府は間もなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容の条約(安政五カ国条約)を締結したが、これらの条約に関する勅許が得られず、諸外国と交渉を行った結果、兵庫開港の期日を5年遅らせ、1868年1月1日(慶応3年12月7日)とした。朝廷側は御所のある京都に近い兵庫を開港することに難色を示し、1865年12月22日(慶応元年11月5日)に安政五カ国条約についての勅許を与えた後も許そうとせず、延期された開港予定日を約半年後に控えた1867年6月26日(慶応3年5月24日)になってようやく勅許が与えられた。 江戸幕府は勅許を得る前から兵庫開港に向けた交渉を諸外国と行っており、1867年5月16日(慶応3年4月13日)にイギリス・アメリカ・フランスとの間に「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)を締結した。同取極第1条には「日本政府において条約済の各国人兵庫に居留地を神戸町(神戸村)と生田川との間に取極め…」と規定され、兵庫津の約3.5km東に位置する神戸村に居留地が設けられることになった。そしてそれに伴い、神戸村の海岸に建設される新たな港が外国に開放されることになった(新たな港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港と名付けられた)。 「兵庫開港」において、兵庫津ではなく後の神戸港が開放されることになった理由・経緯を示す資料は存在しないが、複数の推測がなされている。楠本利夫『増補 国際都市神戸の系譜』は、江戸幕府側が外国人を敬遠する住民感情を考慮し、衝突が起こらないようにとの配慮から、すでに港として栄え(兵庫津は当時大坂の外港として機能し、取引の盛んな港であった)往来の激しい兵庫津の開放を避けたと推測している。また、『新修神戸市史 歴史編3』および『増補 国際都市神戸の系譜』は、人口の多い兵庫津周辺よりも神戸村のほうが用地の確保が容易であり、1865年(元治2年)に閉鎖された神戸海軍操練所の施設を活用できたためと推測している。さらに『増補 国際都市神戸の系譜』は、1865年11月(慶応元年9月/10月)に兵庫津付近の海域を測量したイギリス公使ハリー・パークスの随行員が「兵庫の旧市内からやや離れたところにある」居留地の予定地について「十分な水深もあり、天然の優れた投錨地となっている小さな湾に面している」と評価した記録を残していることを取り上げ、「兵庫の旧市内からやや離れたところにある予定地」とは神戸村を指しており、外国側も兵庫津より神戸村のほうが開港場に適しているという認識を持っていたと推測している。なお、神戸港の港域は1892年(明治25年)に拡大され、兵庫津を含むようになった。 居留地の具体的な設置場所は神戸村内の、東は(旧)生田川(後のフラワーロード)、西は鯉川(後の鯉川筋)、南は海と、三方を川と海で囲まれた(北は西国街道(後の花時計線)に接していた)、広さ約7万8,000坪(約258,000平方メートル)の土地に決まった。『新修神戸市史』はこの選定について、「外国人と日本人との接触を極力回避しようとした幕府の配慮がうかがえる」としている。
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兵庫開港(1867-68年)
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「幕末の砲艦外交」の記事における「兵庫開港(1867-68年)」の解説
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えない状況が続いた。兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた1867年6月26日(慶応3年5月24日)のことである。第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てにようやく勅許を得ることができた。 兵庫開港を約束どおり幕府に実行させるため、パークスの提案で英・仏・米の3ヶ国18隻の大艦隊が兵庫に派遣されることとなった。1867年12月末に艦隊は兵庫に到着、1868年1月1日(慶応3年12月7日)、神戸は無事開港した。その直後の 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。戦いに敗れた徳川慶喜は1月6日夜(1月30日)、天保山沖に停泊中の米国軍艦イロコイに一旦避難、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に脱出した。1月11日(1868年2月4日)、神戸事件が発生し、兵庫港に停泊中の諸艦の水兵が神戸を占領した。 艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲英国 ロドニーRodney 蒸気スクリュー戦列艦 1860年改造 積載量2590トン(bmトン)排水量4375英トン 850 500NHP2246IHP 70 オーシャンOcean 蒸気スクリュー装甲艦 1865年改造 積載量4047トン(bmトン)排水量6832英トン 606 1000NHP3750IHP 8インチ砲x47インチ砲x20 バジリスクBasilisk 蒸気外輪スループ 1849年 積載量1031トン(bmトン)排水量1710英トン 310 400NHP 64ポンド砲x5(6という記載もあり) リナルドRinaldo 蒸気スクリュースループ 1860年 積載量951トン(bmトン)排水量1365英トン 175 200NHP745IHP 40ポンドアームストロング砲x568ポンド砲x132ポンド砲x8 ラトラーRattler 蒸気スクリュースループ 1860年 積載量950トン(bmトン)排水量1280英トン 175 200NHP853IHP 40ポンドアームストロング砲x568ポンド砲x132ポンド砲x8 コーモラントCormorant 蒸気スクリュー砲艦 1860年 積載量695トン(bmトン)排水量877英トン 90 200NHP 7インチx164ポンド砲x2 サーペントSerpent 蒸気スクリュー砲艦 1860年 積載量695トン(bmトン)排水量877英トン 90 200NHP 7インチx164ポンド砲x2 スナップSnap 蒸気スクリューガンボート 1855年 積載量232トン(bmトン) 37 60NHP 68ポンド砲x2 シルビアSylvia 蒸気スクリュー測量艦 1866年 積載量695トン(bmトン)排水量865英トン 不明 200NHP 4 サラミスSalamis 蒸気外輪送迎艦 1865年 積載量835トン(bmトン)排水量985英トン 不明 250NHP 20ポンド砲x2 アドベンチャーAdventure 蒸気スクリュー軍隊輸送艦 1855年購入 積載量1593トン(bmトン) 不明 40NHP 2 マニラManilla 蒸気スクリュー倉庫艦 1860年購入 積載量295トン(bmトン) 不明 70NHP 2 フランス ラプラスLaplace 蒸気スクリューコルベット 不明 排水量1900トン 不明 不明 10 米国 ハートフォードHartford 蒸気スクリュースループ 1859年 積載量1900トン(bmトン)排水量2900トン 302 1024IHP 9インチダールグレン砲x2020ポンドパロット砲x212ポンド砲x2 シェナンドーShenandoah 蒸気スクリュースループ 1863年 積載量1375トン(bmトン)排水量2030トン 175 1300IHP 150ポンドパロット砲x111インチダールグレン砲x230ポンドパロット砲x124ポンド榴弾砲x212ポンド砲x2重12ポンドx2 イロコイIroquois 蒸気スクリュースループ 1859年 積載量1016トン(bmトン)排水量1488トン 123 1200IHP 100ポンド砲x19インチ砲x160ポンド砲x132ポンド砲x4 オーネイダUSS Oneida 蒸気スクリュースループ 1862年 積載量1032トン(bmトン)排水量1488トン 123 1200IHP 11インチ砲x28インチ砲x630ポンド砲x124ポンド砲x212ポンド砲x1 アルーストックAroostook 蒸気スクリュー砲艦 1862年 積載量507トン(bmトン)排水量1488トン 114 400IHP 11インチダールグレン砲x124ポンド砲x120ポンド砲x112ポンド砲x2
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