兵庫開港問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:34 UTC 版)
兵庫港は、安政5年(1858年)に締結された、日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、西暦1863年からの開港が予定されていたが、異人嫌いで知られた孝明天皇が京都に近い兵庫の開港に断固反対し、また条約そのものの勅許を出さなかったため、開港計画は頓挫していた。 この状況に業を煮やした諸外国が慶応元年(1865年)9月13日、イギリス公使ハリー・パークスの呼びかけにより、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が紀淡海峡を突破して兵庫沖に停泊し、開港を迫る事件が起きていた。幕府が新たに結んだロンドン覚書では開港が5年延期され、西暦1868年1月1日(和暦では慶応3年12月7日)をもって兵庫開港の期日としていたため、慶喜の将軍就任時点では、あと1年しか残されていなかった。 フランス公使レオン・ロッシュは、早速2月6日に大坂城で慶喜と会見し、兵庫開港の履行を求めている。これを受け3月5日、慶喜は朝廷に兵庫開港の勅許を奏請したが、容れる所とならず、22日に再度上表。これも不許可とされる。諸外国からは開港半年前(6月7日)までに国内にその旨を告知することが求められており、何としても5月中の勅許が必要であったため、慶喜は諦めることなく三度上表文を提出する。 その一方、3月中旬に慶喜は各国公使を大坂城にて公式に引見し、将軍の責任をもって兵庫開港を断行すると宣言。薩摩藩など幕府権威の低下を図る勢力を牽制し、幕府が日本を代表する政府であること、外交の主導権が厳然として幕府にあることを明示した恰好となった。すなわち兵庫開港は外交問題でありながら、国内の政局問題と強く連動していたのである。
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