議題の優先問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:34 UTC 版)
5月14日、慶喜は四侯を引見して国事を議するが、長州問題と兵庫開港問題のどちらを優先するかが、まず対立点となった。久光は長州寛典論(藩主・毛利敬親が世子・広封へ家督を譲り、十万石削封を撤回、父子の官位を旧に復す)を唱え、兵庫問題よりも先にこれを決定すべきであると主張し、宗城が同調した。しかし慶喜は、長州寛典は幕府の非を認めることになる上、会議が薩摩主導の流れになってしまうことを恐れ、これに反対。兵庫開港の期日が迫ってきていることを理由に、あくまでこちらを優先すべきと立場を崩さず、3年半前の参預会議と同様、慶喜と久光の対立で会議は頓挫してしまう(ただし参預会議の際には、久光が長州即時懲罰を主張し、慶喜が横浜鎖港を主張するという全く逆の展開であった)。結局妥協が見られぬままこの日は、慶喜の提案により諸侯との記念写真を撮影しただけで散会となり、四侯側が慶喜から上手くあしらわれた恰好となった。 19日には病欠と称した容堂を除く3人が、老中・板倉勝静(備中松山藩主)、稲葉正邦(淀藩主)に談判するが納れられず、松平春嶽は両件同時奏請を提案して妥協を試みる。しかし慶喜の政局主導を阻止したい大久保利通は越前藩邸へ出向いて説得(小松も宗城を説得)。結局23日にいたって四侯は、連名で長州問題先議を建議書にして提出するにとどまった。
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