兵庫(神戸)開港まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 14:06 UTC 版)
「兵庫開港要求事件」の記事における「兵庫(神戸)開港まで」の解説
ところが、朝廷は安政五カ国条約を勅許したものの、なお兵庫開港については勅許を与えない状況が続いた。兵庫開港の勅許が得られたのは、延期された開港予定日を約半年後に控えた慶応3年5月24日(1867年6月26日)のことである。第15代将軍に就任した徳川慶喜は2度にわたって兵庫開港の勅許を要請したがいずれも却下され、慶喜自身が参内して開催を要求した朝議を経てにようやく5月24日勅許を得ることができた。 慶応3年12月7日、各国の艦隊が停泊する中、神戸は無事開港した。その直後の 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、鳥羽・伏見の戦いが勃発した。戦いに敗れた徳川慶喜は1月6日夜(1月30日)、開港したばかりの兵庫沖に停泊中の米国軍艦イロコイ号(英語版)に一旦避難、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に脱出した。 また、その直後の慶応4年1月11日(1868年2月4日)、備前藩と神戸停泊中の各国の兵士との銃撃戦となった神戸事件が発生している。
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