兵役からの反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:38 UTC 版)
「モーリス・ルブラン」の記事における「兵役からの反動」の解説
1883年には自らフランスに戻り、11月5日にルーアン市庁舎で「条件付き兵役(1500フランを納入することで、本来5年の期間を一年に短縮できた)」に志願している。同年11月12日、ヴェルサイユ旧王立厩舎内の第11連隊(砲兵)に配属、翌1884年11月12日には予備役編入(条件付き兵役のため、正式な予備役編入は1888年11月8日付となる)までの待命予備期間(事実上の復員)となり、ルーアンに帰郷した。後年、このイギリス居住と兵役の期間について、ルブランは「L'Enthousiasme」で「『この二年間、私は不幸だった』と率直に言うことができるだろう」 と述懐している。 帰郷後の彼はこの二年の反動のごとく遊蕩に明け暮れた。劇場や居酒屋に足繁く通い、ビリヤードや葉巻の喫煙、飲酒や買春が毎日の生活の一部となった。旅行にも興味を示し、ラクロワ島を訪れたり、サイクリングで「フランス全土を踏破」 したりしたのもこの頃である。これらについてルブランは「決められた仕事に無理矢理就かせられたり、何らかの制限を設けられたりするという考えが、私には突然、耐えられなくなった」と「L'Enthousiasme」にて回想している。一方で、後の代表作「奇巌城」はこの頃訪れたエトルタの情景が源流となっている。 だが、1885年1月27日、敬愛する母ブランシュが41歳の若さで逝去し、その遺産相続にともなう親権解除のため、彼は就職せねばならなくなった。父の伝手により将来的に共同経営者となるべくルイ・ミルド=ビシャールが所有する機械式梳毛(そもう)工場に勤務することになったものの、これはルブランにはまったく関心をもたらさない仕事であり、そこから逃避する手段として、ルブランは小説の執筆を始めた。
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