兵役と敗戦
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王立ヨージェフ工科大学 (Királyi József Műegyetem) に入学した翌年の1917年9月に当時の制度に従い士官候補生として徴兵された。一年間の士官学校生活を経て、オーストリア山岳地帯に訓練のため配属されている間に重い流感に罹り、休暇を願い出て故郷で療養することとなった。ほどなく前線に送られた所属部隊が全員行方不明となったという報せを聞き、あやうく難を逃れたのだと知った。その数日後、第一次世界大戦は終戦を迎えた。シラードは、このときの自分がオーストリア=ハンガリー軍でスペイン風邪として報告された最初の患者でなかったかとしている。 敗戦後、ハンガリーの政情と経済は混乱し、激しいインフレによって邸宅を残して一族の資産はほとんど失われた。復帰した大学では政治運動が活発となり、レオ・シラードは弟ベーラ (Béla)とともにその流れに加わった。兄弟は、一見すると論理的にも奇妙にも見えたという新たな社会主義的税制を提唱してビラを作製し、学生団体を組織して集会を呼びかけた。その一度限りの集会には数十人の学生が集まったが、ビラに記した議論を読んで理解してきた者はほとんどいなかったという。 1919年3月、ハンガリーは外国の侵入を受ける中、クンのソビエト政権が権力を掌握した。この年、兄弟はメーデーのパレードに参加したものの、赤色テロ (vörösterror) の横行や経済に対する政権の硬直的な考えによって幻滅を抱くことになった。6月になるとホルティに率いられた国民軍が蜂起するとともにルーマニア軍がブダペストを占拠して、クン政権はわずか4カ月で終焉を迎えた。ホルティが権力を握ると国内では前政権への反動として共産主義者やユダヤ人に対する白色テロ (fehérterror) が始まることとなった。レオらは直前にプロテスタントに改宗していたが、ユダヤ人に敵意を燃やす学生達によってお構いなく暴力的に大学から締め出された。ブダペストを離れベルリンで学問を続けようとしたものの、すでに新政権は前政権のシンパではないかとして兄弟を調査対象としており、出国査証を得るには大学の教員や友人、そして役人への賄賂の力が必要だった。レオは1919年のクリスマスの日に追われるようにハンガリーを後にした。
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