兵役からプロ野球再開まで
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「藤村富美男」の記事における「兵役からプロ野球再開まで」の解説
1939年1月、召集を受け郷里の陸軍広島第5師団歩兵第11連隊に23歳で入営。連隊砲(小型の大砲)要員となる。幹部候補生の試験のうち、将校になれる甲種試験には合格できなかった。藤村は最終的に軍曹となったため、下士官になる条件の乙種試験には合格したのではないかと南萬満は推測している。二等兵として3ヶ月の訓練を受けて3月に上等兵となると、最前線に動員されて国内外を移動した。最初は4月に中国の青島に派遣され、中国大陸で作戦に参加。次いで仏印、さらに華南へと移る。華南では谷に転落、左大腿部に重傷を負い野戦病院に入院する。切断が必要と言われたが、手術で切断は免れた。入院中に伍長に昇進。 1939年9月にはノモンハン事件への出撃が命じられるが、行く途中で停戦になり日本に戻る。その後、東京でマレー半島上陸作戦の訓練を受けた。この後マレー作戦に参加。1941年クアラルンプール近郊のジャングルでの戦闘では、英国軍に至近弾を浴びた。戦友の肉片が顔じゅうにかかったがこれも凌ぎ、シンガポールの戦いでは、最前線で英国軍の砲火にさらされながら、電話線をかける作業をした。砲火を避けるためヘッドスライディングの連続だった。藤村は砲弾の直撃を受けて死んだ戦友の左腕をナイフで切り落して三角巾で巻いて首から吊るし、後にそれを遺骨にして遺族に送っている。1942年2月14日の戦闘では英国軍の白旗を最初に発見したといい、「英国降伏の第一報を山下奉文らの司令部に送ったのはワシや」と誇っていたという。シンガポール陥落の後、輸送船でジャワ島からニューギニアに向かう途中、バンダ海で潜水艦に撃沈される事態に遭遇した。この時はフカがたくさんいる海を半日泳いで助かった。戦後、この話を家族にマッチ箱とタバコを使ってよく話していたと夫人は証言している。 1943年2月2日、アンボン島に辿りついた藤村に内地帰還の命令が下る。アンポン島からスラバヤまで、いつ撃沈されるか分からない輸送船の上で数日間眠れない夜を過ごし、その後スラバヤ-シンガポール-下関のルートを計半年がかりで無事帰還。すぐ除隊になり呉の実家に帰った時には27歳だった。既にこの時点で4年半を兵役に費やした。 同年夏に復帰したときには敵性語の規制によりチーム名は「阪神」となっていた。多くのチームメイトは戦地にとられ、ライバル巨人の沢村栄治も戦地で無数の手榴弾を投げさせられた扱いにより肩を壊して往年の球威はなかった。軍隊生活の影響で藤村も精彩を欠き、景浦と一・二塁を組んだが「一・二塁間狙え!」「藤村狙え!」と厳しい野次が飛ばされた。打撃もふるわずに終わる。しかし翌1944年春には打棒が戻り、3割1分5厘で打率5位、打点25で打点王を獲得。秋のシーズンは戦局悪化のため中止となったため、夏のシーズンが戦前最後のシーズンとなり、阪神がプロ野球最後の勝率8割台(8割1分8厘)で優勝を飾った。 1945年1月1日から5日まで開催されたオープン戦「正月野球大会」に出場。この大会は戦前最後のプロ野球と呼ばれている。この後神戸大空襲で破壊された電車の復旧工事をしている時、広島の連隊に再召集された。ここで本土決戦に備え塹壕掘りなどに従事。同年4月、連隊は福岡県折尾(現:北九州市八幡西区)に移動。今度は山の中で軍用犬の教育をしていた。このため8月6日の広島の原爆投下には遭わなかった。ただ、当時、藤村は広島の原爆で死んだという噂もあったという。敗戦後は呉の実家に帰っていたが、進駐軍の雑役に駆り出され、人間魚雷「回天」の解体作業をやっていた。11月、球団から「スグカエレ」の電報が届き、再び野球をやれる喜びで体が震えたという。既に30歳となっていた。当時は30歳を過ぎるとロートルと見られていた。結局プロ野球選手として一番脂の乗り切ったほぼ7年間を兵役と戦時中の混乱に取られた格好になった。
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