慶喜の外国公使謁見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:21 UTC 版)
「アーネスト・サトウ」の記事における「慶喜の外国公使謁見」の解説
将軍となった徳川慶喜が大坂での外国公使謁見を申し出たため、その件および兵庫開港問題などについて情報収集するために2月に兵庫・大坂を訪問し、その際薩摩の小松帯刀とも会った。4月にパークスが慶喜に拝謁した際には、サトウはその通訳を務めたが、パークスは慶喜に対して非常に肯定的な評価を持った。このため、薩長との関係が深いサトウは不安を抱いたようで、後に西郷隆盛の来訪をうけた際には、幕府とフランスが提携しつつあり、これに対抗するためイギリスは薩摩を援助する用意があるとまで発言しているが、西郷は外国の助けは不要と謝絶した。また西郷から「議事院」など将来にわたる日本の政治体制について話をきいた。 大坂からの帰路は、チャールズ・ワーグマンと共に陸路(東海道)を通った。掛川宿で日光例幣使の家来に「夷狄」という理由で襲われたが、無事であった(アーネスト・サトウ襲撃事件)。 7月、日本海側の貿易港選定のため、パークスに随行して箱館経由で日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を調査した。サトウは七尾でパークスと別れ、ミットフォードと共に陸路(北陸道)を通って大坂まで旅した。ミットフォードと二人で阿波を訪問する予定であったが、長崎で起きたイカルス号水夫殺害事件の犯人が土佐藩士との情報(誤報であったが)があったため、阿波経由で土佐に向かうこととなり、パークスも同行した。土佐では主に後藤象二郎を交渉相手とし、前藩主・山内容堂にも謁見した。土佐藩船「夕顔」 で下関経由で長崎に向かい桂小五郎と初めて会った。関係者との協議でイカルス号水夫殺害事件における土佐藩や海援隊への嫌疑は晴れた。 江戸で開成所教授・柳河春三と親交を持ったが、春三は後に『中外新聞』を発行しており、柳河との関係を通じて戊辰戦争中佐幕派の情報収集にもあたった。
※この「慶喜の外国公使謁見」の解説は、「アーネスト・サトウ」の解説の一部です。
「慶喜の外国公使謁見」を含む「アーネスト・サトウ」の記事については、「アーネスト・サトウ」の概要を参照ください。
- 慶喜の外国公使謁見のページへのリンク