慶喜と家族(一橋家)
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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) (七郎麻呂 → 徳川慶喜) 演:草彅剛(七郎麻呂:笠松基生) 一橋家当主。のち江戸幕府第15代将軍。水戸藩主・徳川斉昭の七男。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)。官職は刑部卿(ぎょうぶきょう)。のち一橋宰相、一橋中納言と称される。 父・斉昭から厳しく養育され、御三卿・一橋家の当主となり徳川慶喜と名乗る。12代将軍・徳川家慶から実子のように可愛がられ、諸大名から次期将軍として期待されるが断っている。そんな中、小姓となった平岡円四郎には心を開いていく。 日米修好通商条約の調印を巡り、大老・井伊直弼によって謹慎を命じられるが、桜田門外の変後に謹慎を解かれ将軍後見職に任じられる。その後、参与会議により薩摩藩の島津久光らとともに朝議参与に任じられる。会議解散後、禁裏御守衛総督に就任し、公武合体と開国を推進する。 円四郎の画策で栄一や喜作を家臣とし、禁門の変や天狗党の乱、長州征討など世情が不安定な中、「一橋の懐」を豊かにするとして財政政策を推進する篤太夫(栄一)に惹かれていく。 長州征討の最中に14代将軍・徳川家茂が病死すると、篤太夫の反対を押し切って徳川宗家を継ぎ15代将軍に就任する。その後も篤太夫への信頼は変わらず、弟・昭武の渡仏への随行と借款交渉の任務を任せる。 将軍として次々と幕政改革を打ち出し、手腕を発揮していく。倒幕の動きを強める薩摩藩と公家の先手を打って政権を帝に返上する(大政奉還)が、薩摩藩の挑発により勃発した鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗北し、錦の御旗が立てられると単身江戸へ退却する。天璋院に𠮟責され小栗忠順らから抗戦を主張されるも、新政府への恭順を示して上野の寛永寺で謹慎する。 その後は水戸藩や駿府藩でも謹慎生活を送る。謹慎が解かれた後も政に復帰することはなく駿府藩(のち静岡藩、静岡県)にとどまり、静かに余生を過ごす。帰国した篤太夫と対面し、駿府で働くよう計らい、また新政府から出仕を求められた篤太夫に「自分のことは忘れて日本のために尽くせ」と諭す。篤太夫から名を「栄一」に戻すことを告げられると、「渋沢栄一、大儀であった。息災を祈る」と告げて送り出す。 徳川の世を再評価する気運が高まると、栄一の訪問を受け「伝記を作らせて欲しい」と頼まれるが、「話すことは何もない」と断る。しかし、30年ぶりに東京へ戻り、栄一が肺炎で危篤状態になったことを知ると、すぐさま栄一のもとへ駆けつけ「生きてくれたらなんでも話す」と、伝記作成に協力することを約束する。栄一の体調が回復した後、伝記編纂のため、歴史学者や多くを知る人たちが集まった中で幕末を振り返り、幕臣たちの「薩摩を討つべし」の声を抑えきれず、それが戊辰戦争に繋がったと後悔の念を語った。維新の後、隠遁生活を送ったのは自分が戦の火種になるのを避けるためであり、「人には生まれついての役割がある。隠遁は、私の最後の役割だったのかもしれない」とも語る。この言葉は、栄一が実業家を引退するきっかけともなった。 自身の伝記『徳川慶喜公伝』の完成が近付いた頃、栄一に修正の原稿を渡す際に、共にいてくれたことに対する感謝の言葉を伝え、大正2年(1913年)に77歳で生涯を終える。徳川歴代将軍では最高齢であった。 徳信院(とくしんいん) 演:美村里江 一橋家先々代当主・徳川慶壽の正室。慶喜の養祖母。 慶喜に慕われており、美賀君から恋仲を疑われる。 徳川美賀子(とくがわ みかこ) (美賀君 → 徳川美賀子) 演:川栄李奈 慶喜の正室。今出川家の姫。幕府時代の通称は美賀君(みかぎみ)。 一橋家へ輿入れの時は慶喜との関係が薄く、徳信院に嫉妬し自殺未遂を起こす。将軍就任や大政奉還、謹慎など紆余曲折を経る慶喜に、次第に理解を示すようになる。 京で活動する慶喜とは長らく別居生活が続いたが、維新後、慶喜の謹慎が解かれると静岡に移り、ともに暮らすようになる。自身は子に恵まれなかったが、慶喜の側室の子も我が子のように育てる。明治27年(1894年)に乳がんを患い、治療のため東京に移るが、尽力の甲斐無く死去する。 徳川鏡子(とくがわ きょうこ) 演:齋藤さくら 慶喜の長女。 徳川厚(とくがわ あつし) 演:海津陽 慶喜の三男。 徳川久(とくがわ ひさし) 演:木下琉維 慶喜の七男。
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