慶喜の側近として
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元治元年(1864年)、慶喜の側用人であった平岡円四郎が暗殺される。同年慶喜が禁裏御守衛総督に就くと、孫太郎は正式に一橋家の家臣となる。慶応元年(1865年)の兵庫開港要求事件が尊王攘夷派から反感を買い、慶喜の側近らは奸臣と見なされた。慶応2年(1866年)8月20日、禄高百俵の両番格奥詰・目付に就任。12月2日には布衣を許された。同年、嫡男の梅沢信貞が水戸藩の内紛鎮圧に失敗した宍戸藩主松平頼徳に従っていたことを水戸諸生派に恨まれ、のちに捕縛・吉田原で打首の憂き目にあっている。慶応3年(1867年)念入りな護衛の中、原市之進が暗殺される。孫太郎は老中板倉勝静らと難を逃れた。その後、慶喜が宿所を二条城へ移すと、孫太郎が留守居役をつとめる。このころ、側用人格大目付(応対役)に就任する。慶応4年1月5日(1868年1月29日)、朝廷の命を受けた議定・徳川慶勝に城を引き渡す。戊辰戦争の際は直接関与しなかったものの、高橋泥舟と共に須永伝蔵を使って仙台藩・二本松藩などへ謀略をはかろうとしていたが、未遂に終わっている。 なお、孫太郎の三男・梅沢敏が人見勝太郎率いる遊撃隊に従っており、庄内藩領の酒田で降伏している。
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