慶喜一行の大阪城脱出
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「慶喜一行の大阪城脱出」の解説
慶喜には初めから戦意がなく、将校・兵士らが北進のあとも、一度も大阪城を出ず、この数日、風邪をひいていて寝巻のまま、ほとんど布団のなかにいた。鳥羽・伏見の戦いが開戦した報(しら)せを聴くと、慶喜は万事休すと決心し、ことさらに内にこもっていた。4日、開戦の報せにともなって、帰京する福井藩士・中根雪江へ託し、慶喜は直書を尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、紀州藩主・徳川茂承、宇和島藩主・伊達宗城、熊本藩主・細川護久らへ連名で送って、「奏聞(天皇へ申し上げること。慶喜の先供として入京したと伝えること)の次第はあっても、輦轂(れんこく)の下(天皇のおひざ元)で武器・防具は動かさぬよう、かねて兵隊らへ申し諭しておいたのに、相手からすでに発砲されてしまったからにはこの後の形勢は心配である。くれぐれも鳳輦(ほうれん)(天皇ののりもの。間接表現でうやまった天皇のこと)を守護していただくよう、厚くお頼み申す」と書いた。やがて錦旗が掲げられたのを聴くと、慶喜はますます驚いて「あわれ、自分は朝廷に対し歯向かう意思などつゆばかりも持っていないのに、賊名を負うにいたったのは悲しい事だ。最初に、たとえ家臣の刃にたおれても命のかぎり会桑(会津藩、桑名藩)をさとし帰国させておけば、ことここに至ることはなかったろうに。部下がわが命令をきかない腹立たしさで、『いかようにとも勝手にせよ』と言い放ってしまったことこそ一期の不覚だ」と悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱になった。 6日、慶喜は大阪城で会津藩士・神保修理に「事ここに至っては、もはやどうしようもありません。速やかにご東帰なさり、落ち着いて善後策をめぐらされるべきです」との建言を受け、若年寄・永井尚志もこの議論に賛同した。初めに大阪城へ戻ったとき、たとえ暴発しつつある藩屏に刺し殺されようとも会津藩・桑名藩へ諭して各々帰国させ、その後みずからは再び朝命の通り御所へ参内し『今は一己の平大名にすぎないため、願わくば前々通りお召し使い下されるべきです。朝廷の御為には粉骨砕身つかまつります』と天皇家(朝廷)へ懇願すればよかったと後悔していた慶喜は、元日、討薩に勢いづく会桑二藩を諭し得ず『なんじらのなさんとするところをなせ』『いかようにとも勝手にせよ』と言い放ってしまい、つづけて鳥羽・伏見の戦いが発生した事を一期の失策と考えていた。慶喜はこの後悔のさなか、神保による建言を聴いたため、寧ろその説を利用して、徳川宗家の居城・江戸城へ帰って堅固に天皇家(朝廷)へ恭順謹慎しようと決心したが、心に秘めてそうは人には語らなかった。試しに諸有司・諸隊長らを大阪城・大広間に招集し、「この上はどうすべきか」と尋ねると、いづれも血気にはやる輩のみで、みな異口同音に「少しでも早くご出馬遊ばされるべきです」というのみだった。慶喜は彼らを良きほどにあしらい置いて、老中・板倉勝静と若年寄・永井尚志を別室に招き、恭順の真意は漏らさずに、ただ東帰の事について告げた。板倉・永井両人が「ともかくも一旦ご東帰の方がよろしいかと」と言ったため、慶喜はいよいよそうしようと決心し、再び大広間へ出て形勢をみると、依然として藩屏が慶喜へ出馬をしきりに迫ってきた。このため慶喜は「では、これから打ち立つぞ。みなの者、用意せよ」と命じると、一同は喜び踊っておのおのの持ち場へ退いていった。この隙に、慶喜は老中・板倉勝静、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬ら4、5人の者を従え、ひそかに大阪城の後門から抜け出た。城門では衛兵に咎められるかもしれないといたく気を遣っていたが、「ご小姓でござる」といつわって通ったので衛兵も騙され、別に怪しみもしなかったのは、慶喜自身が後年、回想録『昔夢会筆記』で語るところ「誠に幸運だった」という。
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