薩摩藩の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:34 UTC 版)
一方、慶応2年(1866年)に長州藩と薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局を牽制し、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えていた。 そこで薩摩藩在京首脳の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する会議を画策する。 2月1日には島津久光(藩主・島津茂久の父)に上京を促すため、西郷が鹿児島へ帰国。久光の賛同を得た西郷は、そのまま久光の命で伊達宗城(前宇和島藩主)、山内容堂(前土佐藩主)の誘い出しに赴く。 一方、京都では小松が在京中の松平春嶽(前越前藩主)を説得。3月25日には久光が7000人と号する藩兵(実際は700程度か)を引き連れて鹿児島を出発(4月12日に入京)。続いて4月15日に宗城も入京。5月1日には容堂も入洛し、四賢侯が揃った。 なお、慶喜の再三にわたる兵庫開港の上奏を受けた朝廷は3月24日に全国25藩に対し、慶喜上表文に対する意見具申と藩主上京を求めていたため、これら諸侯の上京も結果的に朝命となった。
※この「薩摩藩の動き」の解説は、「四侯会議」の解説の一部です。
「薩摩藩の動き」を含む「四侯会議」の記事については、「四侯会議」の概要を参照ください。
- 薩摩藩の動きのページへのリンク