薩摩藩の急浮上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:13 UTC 版)
率兵上京により、京都政局に深く関与することとなった島津久光は、攘夷慎重派であり、即時破約攘夷派に制圧されていた孝明天皇からの絶大なる信任を獲得した。更に久光の上京は、同じく攘夷慎重派であった青蓮院宮尊融入道親王(のちの中川宮、更に改名して久邇宮朝彦親王)と近衛忠煕らに歓迎され、公武合体派の重鎮として朝政における存在感を高めていった。これらの勢力が破約攘夷派の三条・姉小路らと激突するのは必然であり、姉小路暗殺も京都政局および孝明天皇を巡る主導権争いが背景にあると認識され、事件直後から薩摩藩の関与が噂された。しかし文久2年8月に発生した生麦事件とその後の薩英戦争への備えにより、久光はほとんど上京できず、国元に滞在することを余儀なくされた。このため攘夷慎重派にとっては久光の上京が待望されていた。
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