薩摩藩による保護と統制
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「東市来町美山」の記事における「薩摩藩による保護と統制」の解説
島津義弘以降、窯業の産業地として薩摩藩に位置づけられた苗代川は薩摩焼生産に対して保護策がとられ、朴平意と沈当吉の両家を中心に陶業が盛んとなった。特に沈当吉は技術に優れていたことから島津義弘によって陶場の主取役に命ぜられ、沈家を中心に陶業の発展の基礎が築かれた。苗代川では甕・壺・摺鉢など大型の日用陶器が生産されていたほか、白薩摩と呼ばれる藩主向けの御用品の生産のみに制限されていた高級な薩摩焼が生産されていた。 一方で統制も行われており、苗代川村の住民には移住の自由はなく、他村の人間が結婚により苗代川村に移住することは許されたが、苗代川村の住民が他村に出ることは許されなかった。井上(2014)によれば薩摩藩は被虜人の居住区である苗代川を薩摩の異域として作り上げようとし、朝鮮風俗の維持を命じたという。 明和元年(1771年)には薩摩藩主島津重豪は、苗代川の住民の生活から朝鮮式の文化が薄れ特別な行事等を除いて日本化していたことから、苗代川の住民に対して朝鮮服の着用と朝鮮語の常用を命じた。その結果、苗代川の住民は明治時代初期まで言語・服装から全ての風俗習慣が朝鮮式となっており、薩摩藩の地誌である「三国名勝図会」には朝鮮式の服装をしている住民の絵図が掲載されている。 苗代川の住民の中には遠い母国を思い望郷の念により懐郷病となり家業に手がつかなくなった者もいた。これを見た島津義弘は檀君を祭神として祀った玉山神社を建立した。玉山神社では朝鮮風の神舞が伝えられており、藩主の御前や祭礼では朝鮮踊として披露されたとされる。 寛永3年(1626年)には茶屋が置かれ、藩主が来訪したときには茶屋で休憩して焼物見聞を行った。また、寛永年間には樟脳の製造について苗代川の住民である鄭宗官が免許を受け、市来郷伊作田村(現在の東市来町伊作田)の人々を集めて製法を伝えたとされる。樟脳はナフタレンの発明によって需要が低迷するまで近隣の市来郷養母村(現在の東市来町養母)や湯田村(現在の東市来町湯田)・長里村(現在の東市来町長里)でも製造が行われた。延宝3年(1675年)に伊集院麓(現在の伊集院町下谷口)にあった薩摩藩の制度である外城制による伊集院郷の地頭仮屋が苗代川に移転された。貞享2年(1685年)には伊集院郷から独立して役人などが置かれ、武士相当の待遇を受けるようになった。 宝永元年(1704年)には苗代川の人口も増え土地不足となったことから男女160名を笠野原台地(現在の鹿屋市)へ移住させた。笠野原台地はシラス台地であり、水源がなく地下水源も深い位置にあり移住者は水の確保に苦労したという。享保4年(1719年)には再び苗代川村は伊集院郷の支配下となった。享保7年(1722年)には伊集院衆中として扱われるようになり氏字の使用が全面的に認められたが、朝鮮式の氏から選択するように指定され、苗代川の朝鮮風俗化を推し進めたものであった。 このように薩摩藩の保護を受けた苗代川に集められた被虜人らであったが、苗代川村のみで自給自足の独立的な生活ができるわけではなく、近隣の長里(現在の東市来町長里)や伊集院との経済的関係は免れず、言語が通じないことから暴言を浴びせられるなどの差別による被害を受けていた。これを見かねた薩摩藩は苗代川の入口に「朝鮮人を殺伐したる者は6等親まで死刑に処す」という高札を設置して保護を図った。 「苗代川神舞図」 「苗代川帰化朝鮮人図」
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