薩摩藩との交流
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1766年(旧暦明和3年)、薩摩藩の御用船であった豊徳丸が遠州灘で難破し、御前崎沖で座礁するという海難事故が発生した。二ツ家の組頭であった権右衛門は、難破した豊徳丸を発見すると、住民たちを率いて乗員の救出に尽力するなど、附近一帯を挙げての救援活動を展開した。乗員24名を救助すると、衣服や食事を与えるなど親身になって介抱した。 豊徳丸の乗員は、権右衛門ら御前崎の人々の救援活動にひじょうに感激した。そこで薩摩藩側は、感謝の意を込めて、権右衛門に金20両を謝礼として渡そうとした。ところが権右衛門は「難破船を助けるのは村の習わし」と述べるなど、あくまで当然のことをしたまでだと主張し、金20両を受け取らなかった。この権右衛門の廉直な言動は、薩摩藩側に大きな感銘を与えた。 なお、豊徳丸には薩摩藩の用物が満載されており、その中には特産品のサツマイモも積まれていた。そこで薩摩藩側は謝礼金の代わりにサツマイモ3本を贈ることにした。薩摩藩のサツマイモの栽培方法は本来は門外不出とされていたが、権右衛門が栽培方法について質問すると薩摩藩側も快く教えてくれた。これにより、御前崎の地にサツマイモ栽培が伝来した。 権右衛門は、薩摩藩から譲られた3本のサツマイモをもとに、史上初めて御前崎でのサツマイモ栽培に取り組んだ。その後、サツマイモの栽培は、周辺の農家にも広がっていった。1778年10月20日(旧暦安永7年9月1日)に死去し、「玉輪道桟居士」との戒名が贈られた。
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