薩摩藩との交流とは? わかりやすく解説

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薩摩藩との交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:56 UTC 版)

大沢権右衛門」の記事における「薩摩藩との交流」の解説

1766年旧暦明和3年)、薩摩藩御用船であった豊徳丸が遠州灘難破し御前崎沖で座礁するという海難事故発生した二ツ家組頭であった右衛門は、難破した豊徳丸を発見すると、住民たちを率いて乗員救出尽力するなど、附近一帯挙げて救援活動展開した乗員24名を救助すると、衣服食事与えるなど親身になって介抱した豊徳丸の乗員は、右衛門御前崎人々救援活動にひじょうに感激した。そこで薩摩藩側は、感謝の意込めて右衛門に金20両を謝礼として渡そうとした。ところが右衛門は「難破船助けるのは習わし」と述べるなど、あくまで当然のことをしたまでだと主張し、金20両を受け取らなかった。この右衛門廉直言動は、薩摩藩側に大きな感銘与えた。 なお、豊徳丸に薩摩藩の用物が満載されており、その中には特産品サツマイモ積まれていた。そこで薩摩藩側は謝礼金代わりにサツマイモ3本を贈ることにした。薩摩藩サツマイモの栽培方法は本来は門外不出とされていたが、右衛門栽培方法について質問する薩摩藩側も快く教えてくれた。これにより、御前崎の地にサツマイモ栽培伝来した右衛門は、薩摩藩から譲られ3本サツマイモをもとに、史上初め御前崎でのサツマイモ栽培取り組んだその後サツマイモの栽培は、周辺農家にも広がっていった。1778年10月20日旧暦安永7年9月1日)に死去し、「玉輪居士」との戒名贈られた。

※この「薩摩藩との交流」の解説は、「大沢権右衛門」の解説の一部です。
「薩摩藩との交流」を含む「大沢権右衛門」の記事については、「大沢権右衛門」の概要を参照ください。

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