薩摩藩との接触とパリ万博とは? わかりやすく解説

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薩摩藩との接触とパリ万博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 22:08 UTC 版)

シャルル・ド・モンブラン」の記事における「薩摩藩との接触とパリ万博」の解説

同じ頃、薩摩藩密航留学生新納久脩五代友厚松木弘安らに伴われロンドン派遣されていた。幕府使節との接触不調に終わったモンブランは、斎藤伴ってイギリスへ渡り白川健次郎を介して薩摩藩留学団に接触し、その世話役買って出た。さらに新納・五代貿易商設立の話を持ちかけている。富国強兵殖産興業目指していた薩摩藩はこの申し入れ喜び、早速予備交渉行った五代らが各国視察のため大陸渡った際にはモンブラン邸も訪れ、ともに狩りなどを楽しんでいる。慶応元年8月25日1865年10月15日)にはブリュッセルにおいてモンブランと新納・五代との間で12箇条からなる貿易商設立契約書交換された。その直後モンブランパリ開催され地理学協会で、「日本天皇をいただく諸侯連合で、諸国幕府条約結んだのはまちがいだ」というような、薩摩藩主張にそった発表をしている。翌年には輸入品に関する契約更新され薩摩藩主・島津茂久からの商社設立内約礼状モンブラン贈られている。 また、密航留学生うち中博愛田中静洲の二人フランス迎え、しばらく後には町田清蔵加えて面倒をみた。さらに、慶応2年1866年)の末には新納久脩息子・新納竹之助、慶応3年1867年)からは、薩摩藩家老岩下方平息子岩下長十郎も、モンブラン世話フランスで留学生活を送っている。 こうしたモンブラン薩摩藩との交流にともない1867年慶応3年)にパリ行われた万国博覧会においては薩摩藩モンブラン代理人として、幕府とは別名義出展者として参加出品することとなった岩下方平薩摩藩および琉球王国当時事実上薩摩藩支配下にあった)の全権としてパリ派遣されモンブランとともに万博準備進めたが、そこへ幕府から派遣され使節徳川昭武一行到着して薩摩藩出展大い驚き随行した外国奉行向山一履支配組頭田辺太一らは厳しく抗議し、特に出展者名から「琉球」の二文字と「丸に十字島津家家紋)」の旗章を削ること、および「琉球国陛下松平修理大夫源茂久」の名を「松平修理大夫」のみに改めることを求めた薩摩藩代理人モンブラン岩下とともに交渉し、「薩摩太守政府」の名前は譲れないとして談判し結局幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守政府」とし、ともに日の丸掲げることで妥協となったモンブランはさらに『フィガロ』『デバ』『ル・タン』といったパリ有力紙新聞に、すでに地理学会で発表していた「日本絶対君主としての徳川将軍治める国ではなくドイツ同様に各地大名林立する領邦国家であり、徳川家といえども一大に過ぎない」との論調記事掲載させるなど、交渉有利に導くべく工作したこの年日本再訪したモンブラン薩摩藩から軍制改革顧問招聘され鹿児島滞在するなど、薩摩藩との密着度を深めていく。

※この「薩摩藩との接触とパリ万博」の解説は、「シャルル・ド・モンブラン」の解説の一部です。
「薩摩藩との接触とパリ万博」を含む「シャルル・ド・モンブラン」の記事については、「シャルル・ド・モンブラン」の概要を参照ください。

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