薩摩統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:32 UTC 版)
天文5年(1536年)、反攻を開始した忠良・貴久父子は伊集院城を奪還し、天文6年(1536年)に鹿児島に進撃して、入城した。続いて、天文7年(1538年)から翌にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻略し、攻め落とした。そして、天文8年(1539年)に紫原において決戦が行われて実久方を打ち破った。実久は再起を期すために出水に撤退して守護としての実質を失い、そもそもの混乱の発端であった勝久も鹿児島に復帰する支持を得る事が出来ず、母方の大友氏を頼り豊後国へ亡命していった。ここに相州家出身の貴久は鹿児島及び薩摩半島を平定して薩摩守護としての地位を確立するとともに、戦国大名として国主の座についた。 ところが、忠良・貴久父子の急激な台頭は島津氏の一門や薩摩・大隅の国人衆に動揺を与えた。天文10年(1541年)になると、豊州家の島津忠広や肝付兼演・本田薫親(ともに勝久時代の老中)らが共謀し、豊州家以下13氏が勝久の子・益房を擁して貴久方である大隅・生別府(おいのびゅう)の樺山善久を攻めた。13氏の中にはこれまで貴久方であった筈の渋谷氏一族も含まれており、忠良・貴久父子に味方するのは南方衆や肝付兼続など少数に過ぎなかったが、辛うじてこれを撃退した。忠良・貴久父子は本田薫親に樺山氏を生別府から薩摩谷山に移封させてその空地を与えると持ち掛けて和睦し、13氏の連合を崩すことに成功した。天文14年(1545年)に入ると朝廷の上使である町資将が薩摩を訪問して貴久が同国の国主として朝廷に公認される形になった。また、同じ天文14年(1545年)には伊東氏の侵攻と家督相続問題を抱えた豊州家が貴久の保護を求めて従属し、天文18年(1549年)には肝付兼演が降伏、本田薫親は一度は和睦して貴久の老中に取り立てられるも独自の行動が多く、天正17年(1549年)に朝廷に対して勝手に官位を申請したことが叛逆とみなされて討伐・追放された。そして、出水で抵抗を続けていたとみられている島津実久も天文22年(1553年)に病死して後を継いだ義虎は貴久を守護として認めたのである。 天文19年(1550年)、貴久は伊集院城から鹿児島へと移るが、薩摩守護の島津氏の守護所であった清水城を避け新たに内城を築いて戦国大名島津氏の本城とした。天文21年(1552年)、貴久は歴代の島津氏本宗家当主が任官されていた修理大夫に任じられるとともに、自分の嫡男である忠良(貴久の実父と同名である)に将軍足利義輝から偏諱を授けられて「義辰」(後に「義久」と再改名)と名乗らせることに成功した。また、同年には実久の薩州家以外の島津氏一門・庶家から守護である貴久を中心に「一味同心」することを盟約した起請文が作成された。貴久が勝久から守護職を譲られてわずか1か月で悔返されてから25年、薩摩の国主としての地位を確立してから13年にして、ようやく朝廷・室町幕府および島津氏一門のほとんどから守護として名実ともに認められたのである。
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