薩摩藩との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/28 23:33 UTC 版)
薩摩藩との関係は仙台藩と宇和島藩あるいは盛岡藩と八戸藩との関係に近いものであり、薩摩藩支藩ではないとの見解がある一方、本家に当たる薩摩藩からたび重なる介入を受けたことにより、支藩と見なされることが多くなったという見解がある。 佐土原藩は以久の跡を長男彰久の系統の当時の当主久信が辞退し、三男忠興が相続したが、結果的に佐土原藩主家が彰久の系統である陪臣垂水島津家の分家ということになった。薩摩藩(島津宗家)からは従属の立場にあると見なされ、藩内では垂水島津家の下に位置づけるが、藩外では大名分の佐土原藩の方が上という二重基準が『鹿児島県史料』でも見られる。代々の佐土原藩主正室には島津宗家当主の姫ばかりでなく薩摩藩家老の娘を含む薩摩藩出身者が多いこと、薩摩藩から佐土原藩への介入はあっても佐土原藩から薩摩藩への介入はなかったことなどに、大名ながら陪臣の分家という弱い立場が如実に現れている。一方で、薩摩藩主の子を佐土原藩主に養子入りさせることは幕末までなかった。 もっともこれは、仙台藩が宇和島藩に対してとった態度に類似しており、特に伊達宗贇が陪臣石川家の養子から宇和島藩を相続して以降からの関係は薩摩藩と佐土原藩の関係に類似したものとなっている。 一方、国立公文書館内閣文庫の『嘉永二年十月二日決・本家末家唱方』での幕府老中見解では『本家末家唱方之儀、領知内分遣し一家を立て候末家与唱、公儀から別段領知被下置被召出候家は、本家末家之筋者有之間敷』とある。この史料自体が1849年のもので、佐土原藩や宇和島藩などが成立してから200年ほど経っており、佐土原藩などの成立当時の内分分知や新田分知という分家手法がなかった時代にもこの見解であったかは追加研究を必要とする。もっとも江戸時代後期以降は、この見解が意識された可能性がある。
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