北谷恵祖事件の波紋
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「北谷恵祖事件の波紋」の解説
1664年、康熙帝即位の慶賀使が派遣された。しかし使節の帰国後、慶賀船は難破して一部の荷物が紛失し、数名の死者が出たとの報告がされた。しかしこの件には裏があった。皇帝に献上される予定であった金の壺が盗難に遭い、使節の中で毒殺未遂事件が起きていたことなどが明らかになった。琉球側はまず事件を薩摩側には報告せず、内々に調査を進めていたが、やがて事件を知り事態の解明が進まない様子を見て、薩摩側が究明に乗り出すことになった。 当初、薩摩藩の琉球在番奉行による尋問が行われていたが、ついに事件関係者を鹿児島に移送して尋問が行われることになった。1667年、薩摩側は事件関係者に対して判決を下し、責任者として北谷親方と恵祖親方に死罪が言い渡された。これが北谷恵祖事件である。 北谷恵祖事件は琉球と薩摩藩との関係に緊張をもたらした。この緊張関係の打破のために、琉球側は進貢使の出迎え目的として二年一貢の間の年に船を派遣する接貢船の運航を始めることを提案し、薩摩側もこの案を承認する。接貢船の運用は朝貢貿易の回数増加に繋がり、貿易の拡大が見込まれた。一方北谷恵祖事件の前後、琉球の進貢に大きな障害となっていたのが鄭氏政権による海賊行為であった。進貢船は幾度となく鄭氏政権の海賊の被害を受けていて、薩摩藩、幕府にその対策を要望していた。1670年には幕府は長崎に来航した鄭氏政権側の船舶貨物を没収して、琉球側に被害補償として給付した。しかし日本と鄭氏政権とは正式な外交関係を持たなかったため、抜本的な問題解決は不可能であり、その後も鄭氏政権による海賊行為は継続する。 そして北谷恵祖事件による薩摩側との緊張緩和のために案出された接貢船の制度化も、清側からの拒否に遭って上手くいかなかった。接貢船の制度化は1680年代になってようやく達成されることになる。
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