北谷恵祖事件の波紋とは? わかりやすく解説

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北谷恵祖事件の波紋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)

琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「北谷恵祖事件の波紋」の解説

1664年康熙帝即位慶賀使派遣された。しかし使節帰国後、慶賀船は難破して一部荷物紛失し数名死者出たとの報告がされた。しかしこの件には裏があった。皇帝献上される予定であった金の壺が盗難遭い使節の中で毒殺未遂事件起きていたことなどが明らかになった。琉球側はまず事件薩摩側には報告せず、内々調査進めていたが、やがて事件知り事態解明進まない様子見て薩摩側が究明乗り出すことになった当初薩摩藩琉球在番奉行による尋問が行われていたが、ついに事件関係者を鹿児島移送し尋問が行われることになった1667年薩摩側は事件関係に対して判決下し責任者として北谷親方と恵祖親方死罪言い渡された。これが北谷恵祖事件である。 北谷恵祖事件琉球薩摩藩との関係緊張もたらした。この緊張関係の打破のために、琉球側は進貢使の出迎え目的として二年一貢の間の年に船を派遣する接貢船運航始めることを提案し薩摩側もこの案を承認する接貢船運用朝貢貿易回数増加繋がり貿易拡大見込まれた。一方北谷恵祖事件前後琉球進貢大きな障害となっていたのが鄭氏政権による海賊行為であった進貢船幾度となく鄭氏政権海賊被害受けていて、薩摩藩幕府にその対策要望していた。1670年には幕府長崎来航した鄭氏政権側の船舶貨物没収して、琉球側に被害補償として給付した。しかし日本鄭氏政権とは正式な外交関係を持たなかったため、抜本的な問題解決不可能であり、その後鄭氏政権による海賊行為継続する。 そして北谷恵祖事件による薩摩側との緊張緩和のために案出された接貢船制度化も、清側から拒否遭って上手くいかなかった。接貢船制度化1680年代になってようやく達成されることになる。

※この「北谷恵祖事件の波紋」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「北谷恵祖事件の波紋」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。

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