北谷恵祖事件
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北谷恵祖事件(ちゃたんえそじけん)とは、1667年、琉球王国の不祥事に薩摩藩が介入、処分した事件である。
1663年、清よりの冊封を受けた尚質王は、謝恩使として羽地朝秀の叔父で三司官の北谷親方朝暢(唐名は向国用)を派遣した。翌1664年、帰国の途に着いた北谷は福州に逗留する。同年、康熙帝即位の慶賀使として恵祖親方重孝(唐名は英常春)が派遣されたが、船は閩江河口付近で遭難した上に海賊に襲撃された。恵祖達は福州に逃れたが、献上品の金壺が盗まれ、随員の殺害事件が起こった。1665年、謝恩、慶賀使一同は帰国した。
ここで報告を受けた薩摩藩は、事態の解明に乗り出した。1666年6月と10月に関係者を薩摩に上国させ取り調べたところ、真相が明らかになった。
- 海賊とは、中国人に偽装した琉球人であった。
- 手引きをして進貢品を盗んだ船員上間らが、それを咎めた随員の喜屋武筑登之元持を殺し、その従者も殺した。
- 北谷親方は慶賀使に便乗して、家来を迎えによこさせた。
- 金壷を盗んだのは北谷の家来、与那城仁屋達であり、それを更に仲村渠仁屋が盗んだ。
- 同じく北谷家来の宮里子は仲村渠と手を組み、医師の休斎も引き入れて与那城を毒殺、金壷は現地で売り払った。
- それを知った別の船員が、宮里を脅して口止め料をせしめた。
- 家来の関与を知った北谷は、伊平屋島で関係者を下船させて揉み消しを図った。
1667年3月、薩摩藩は処分内容を通告する。北谷、恵祖は監督責任を問われ、北谷が家来を乗船させたのは勝手な振る舞いであり、恵祖は海賊から逃亡するとは臆病千万と、斬首を通告。更に両人の子弟8人を流刑。殺人、窃盗の関係者12人も罪状に応じて処刑、処分するというものであった。
薩摩藩は琉球への判決文に「異議あれば遠慮なく申し立てよ」と書き添えたが、王府は一切逆らうことなく5月21日に北谷、恵祖を処刑した。
参考文献
沖縄大百科事典、沖縄タイムス、1983年
北谷・恵祖事件
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1660年代なかばに起こった、羽地が摂政に就任する契機となった事件。進貢の際に金品略奪が起こり、これに三司官等王府首脳部も関わっていたことから、薩摩藩により首脳部が引責辞任に追い込まれたことで羽地が摂政に就任することとなった。 1609年の薩摩島津氏の侵攻以降、王府中枢では、薩摩の支配を受け容れる王に対し、薩摩の命に従わない役人たちによるサボタージュが相次いでいた。侵攻時の国王である尚寧の次代に当たる尚豊の政権下では、島津氏の支配と冊封朝貢関係を両立・整合させ、島津氏と妥協しつつ王権を維持しようとする尚豊に対し、島津氏の命により中国で購入する物品に粗悪品を選ぶなどして島津氏に対抗しようとする勢力が存在したのである。 そうした政治情勢のなか、1663年に清朝による初の冊封が実現し、その謝恩使として三司官の北谷(ちゃたん)親方朝暢が派遣された。その翌年の1664年には、聖祖康熙帝の即位を祝う慶賀使として恵祖親方重孝が派遣された。恵祖等が福州に入港する直前に暴風に遭い、それに乗じて海賊に襲撃された。この混乱に際して、皇帝への慶賀品が奪われただけでなく毒殺事件まで起こった。そしてさらに問題となったのは、海賊等ふくめ事件は全て乗組員や福州に滞在している琉球人の自作自演であることが判明したことである。薩摩は関係者を藩に呼び出し、厳しく尋問した。その結果、監督責任を問われた北谷と恵祖は、二人とも斬首。二人の家族も連座となり宮古・八重山に流罪となった。 この事件の顛末から、羽地の摂政就任が薩摩藩による琉球の新たな支配編成の要求を担っていたものであるということがわかる。なお琉球は、この事件と同時期に、薩摩との緊張関係緩和を目指し、毎年中国に行き貿易することが可能となる接貢船の制度化を進めることで朝貢貿易の再建・拡大を目論んでいた。しかし鄭氏からの攻撃やそれに続く中国大陸における三藩の乱勃発により、海外貿易政策を介した薩摩との関係改善は打開策を見いだせないでいた。
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