容疑者・田中新兵衛の自害
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「朔平門外の変」の記事における「容疑者・田中新兵衛の自害」の解説
事件現場には、犯行に使われたと思われる刀が遺棄されていたため、その刀の所有者を割り出すことから捜査が始められた。凶器の刀は「奥和泉守忠重」の銘があり、薩摩風の拵であったため、当初から薩摩藩関連者の犯行と目されたが、犯行現場にわざわざわかりやすい凶器を遺すというのは薩摩藩を陥れる謀略であるという風聞もあった。 事件2日後の22日、薩摩藩邸に潜伏していた土佐浪士の那須信吾が姉小路邸を訪れ、遺棄された刀が薩摩藩の陪臣で、島津内蔵の家臣であった田中新兵衛のものであると証言した。これを受けて姉小路家は、京都守護職・町奉行に対し、田中を犯人として告訴した。26日、武家伝奏坊城俊克および三条実美の依頼により、京都守護職の会津藩は東洞院蛸薬師の田中の寓居を急襲し、田中新兵衛およびその場に居合わせた仁礼源之丞とその下僕の太郎を逮捕し、坊城邸へ連行した。しかし会津藩は京都守護職の職掌上、容疑者の逮捕までは行ったが、薩摩藩との関係悪化を恐れ、拘留・取調は拒否した。仁礼は浅野家、下僕の太郎は上杉家に預けられたが逃亡し、このため藩主斉憲は帰国できなくなっている。 坊城は、京都町奉行永井尚志に命じて町奉行所に拘留させたが、田中は隙を見て奉行所内で自決してしまい、この筋からの真相究明は不可能となった。この責任を取り、永井は京都所司代牧野忠恭(越後長岡藩主)に謹慎を申し出ている。二十八日には十八藩有志が会談した結果、実行犯は田中に相違ないと結論が出されている。
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