佐土原藩主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:26 UTC 版)
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで島津豊久(従甥)が戦死すると、慶長8年(1603年)、家康との関ヶ原後の戦後交渉を終えた龍伯(義久)と当主家久は、種子島移封後初めて以久を鶴丸城に召し出す。会見では龍伯から家康の意で、関ヶ原の戦い後、幕府直轄地にしていた亡き豊久の旧領である日向那珂郡佐土原3万石を新たに以久に与えると告げられ、その日向佐土原藩の初代藩主となる。後に康元の刀を賜った。 なお以久の孫である島津久信(信久)は豊久の妹を正室に迎え、慶長7年(1602年)には島津久敏を儲けていた。 機会があり徳川家康に拝謁したいと思った以久は、家宝の肩衝茶入を献じた。これが後に「島津肩衝」と名付けられる。 慶長13年(1608年)の駿府城普請を助けた功で、賞誉の御書を受ける。 慶長15年(1610年)、丹波国篠山城の普請のために京都に赴き、上洛中に没した。享年61。 京都四条寺町の大雲院に葬られたが、この時住職に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えする。長男は朝鮮の役の際に病没、次男は養子に出ており、跡を三男・忠興が継いだ。法名は「照譽崇恕高月院」
※この「佐土原藩主」の解説は、「島津以久」の解説の一部です。
「佐土原藩主」を含む「島津以久」の記事については、「島津以久」の概要を参照ください。
- 佐土原藩主のページへのリンク