高月院とは? わかりやすく解説

高月院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/01 08:35 UTC 版)

高月院(こうげついん)は、愛知県豊田市にある浄土宗の寺院である。山号を本松山、院号を高月院、寺号を寂静寺(じゃくじょうじ)と称する知恩院末寺で、本尊として阿弥陀如来を祀る[1]


注釈

  1. ^ 『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  2. ^ 「俗姓足助次郎重範之舎弟重政ト称ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  3. ^ 「師俗姓者足助郷主足助次郎重宗二男也、」(『松平高月院官院記』[7]
  4. ^ 「元弘元年笠置落城ノ後、京師百万遍知恩寺ニ入リ、如一国師ニ投シテ剃髪授戒シ國ニ帰リ當寺ヲ起立シ寂静寺ト号ス、(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  5. ^ 『在原信盛系図書』(松平氏所蔵)[8]。ただし『松平氏由緒書』では信重が語るところとして「せんそ(先祖)と申ハ在原のゆらい(由来)とも申也、又一ツニハ紀州熊野の鈴木の筋共申候、委(くわしく)ハ不存也、但只今ニ至テハ源家ふせう(不詳)ト申候也」とあり[9]、実際には先祖も不詳であると明かしている[10]
  6. ^ 『年代覚』(土井氏所蔵)[11]
  7. ^ 『年代覚』および『松平氏由緒書』[12]
  8. ^ 「北朝應安元戊申年親氏公當邸ニ入郷ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  9. ^ 大無量寿経の経文の1節で、のひとつであり、世の平和と民衆の安寧を願い唱えられる。「天下和順(てんげわじゅん) 日月清明(にちがつしょうみょう) 風雨以時(ふうういじ) 災厲不起(さいれいふき) 国豊民安(こくぶみんなん) 兵戈無用(ひょうがむゆう) 崇徳興仁(しゅうとくこうにん) 務修礼譲(むしゅらいじょう)」
  10. ^ 「親氏公ハ新田ノ太祖義重公十代ノ嫡流ニシテ、塩竈六所明神ノ霊告ニアリテ、當松平郷ニ入セラレ、松平太郎左衛門尉在原信重ノ家督ヲ継キ深ク佛法僧ノ三寶ヲ信仰被為在、新田家再興ノ祈願一向ニ遊ハサレ、當寺開祖寛立上人ヘ帰依不浅、浄土宗門ニ盛ンニ談スル所の天下和順國豐民安ノ経文ヲ聴聞ノ上、…」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[6]
  11. ^ 「此頃當寺ノ山号院号未タ定ラサリシ故、親氏公自ラ名ケ給ヒテ、本松山高月院ト染筆ヲ賜リ、(中略)則チ當山ヲ再建、本堂方丈庫裡中門惣門及ヒ諸堂舎塔頭迠速ニ造営被遊、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[13]
  12. ^ 「當寺ヨリ東南ニ當リ一町許リニ小高キ山上ニ一切経蔵ヲ建立アリテ、公傳持ノ一切経ヲ納メ遊サル、是ヲ法寶御勧請ト申ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[14]
  13. ^ 「當山ヨリ北ノ方一里程ニ天下峯ト申ス高山アリ、則チ公仰セニ、此ノ處ハ六所明神の霊告ニ、予ガ子孫一天下ヲ領スベキ開運前兆の嘉名ナリトテ、寛立上人ニ命セラレ、僧宝中有縁ノ観音ノ像ヲ彫尅セシメ安置シ、尚又公自ラ二王尊ノ像ヲ彫尅在セラレ安置シテ、天下安全ノ為ニトテ一寺ヲ造営アリテ、天下山安全寺仁王院ト名ケ給ヒテ、當寺の末寺ニ附シ玉ヘリ、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[14]
  14. ^ 「當山ヨリ丑寅ノ方数百歩許リニ観音山ト称セシ高山アリ、半腹ニ大岩石アリテ、親氏公傳持ノ甲中観音ノ金像二寸八分ナルヲ、此岩洞ニ安置シ、此大岩石上ニ於テ一七日開山寛立ト共ニ立行遊サレ、皇室御開運御家門御再興ノ祈願一向ニ遊サレ、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[14]
  15. ^ 「應永元甲戌年廿四日御逝去、當寺境内ニ埋葬シ廟塔ヲ建ツ、當寺二世浄譽閑的上人導師焼香ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[15]
  16. ^ 「永享二庚戌年九月廿日逝去、當寺ニ埋葬ス、親氏公廟塔ノ左脇ニ葬ル、当寺第四世寶譽良傳上人引導焼香ス、」(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[16]
  17. ^ 「住僧超譽存牛上人ナル者即 神君五世之祖親忠卿之五男、」(『松平高月院官院記』[20]
  18. ^ 三河鈴木氏酒呑系、鈴木重勝の女という[22]
  19. ^ 『内閣文庫高月院由緒書』[23]
  20. ^ 松平郷松平家の第4代松平信吉を指すとみられる(『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[24])。
  21. ^ 『三河國徳川家大祖親氏公弐代泰親公御菩提所根本松平高月院由緒』[26]
  22. ^ 『高月院世代書』[27]
  23. ^ 超誉と竹千代は高祖叔父と玄姪孫の関係にあたる。
  24. ^ 「天文十八己酉十一月十日東照神君此時号竹千代君御齢八歳時従尾陽駿城渡 御之日枉駕於當山謁廟 住僧超譽存牛上人ナル者即 神君五世之祖親忠卿之五男、而長親卿之舎弟ナレハ者先 御對顔十念御授与之後有数尅』懇切之清談也、虽童齡而領シ玉フ之」(『松平高月院官院記』[20]
  25. ^ 「又永禄三年庚申春 神祖渡于當山如例謁廟之後取小松一株手自ヘ玉ヒ中門即命寺僧曰、當山者苟我松平家称号之根本也、實可謂根本末』平山也、故今樹松樹スト也、」(『松平高月院官院記』[20]
  26. ^ 『高月院文書』(豊田市指定文化財)[30]
  27. ^ 「寛永十八年辛巳家光公當寺伽藍悉皆再建シ玉フ、」(『高月院世代書』[34]
  28. ^ 「同年(寛文五年)十二月十五日家綱公修復料金五百両ヲ下賜フ、」(『高月院世代書』[34]
  29. ^ 「元禄元年壬辰十二月六日綱吉公廟堂并諸堂惣修復シ玉フ、」(『高月院世代書』[35]
  30. ^ 「元文三戊午年六月八日吉宗公金弐百五捨両飛騨榑木二千五百梃ヲ賜ヒ諸堂御修復被命、」(『高月院世代書』[36]
  31. ^ 「寛政三年十二月同祖廟及ヒ諸堂』修復料金千五百両賜ハル、寛政五年丑年二月祖廟諸堂道具料金弐百両賜ハル、寛政五年迠ニ賜金千九百五捨両、樽木千梃也、」(『高月院世代書』[37]
  32. ^ 『高月院世代書』[37]
  33. ^ 『高月院世代書』[38]
  34. ^ 古く在原信重が松平親氏に家督を譲った後に閑居した旧地であるという。
  35. ^ 松平親氏の別邸としてあったものを後年境内に引き移したという。
  36. ^ 『新古什物帳』[43]
  37. ^ 棟札からこの年の普請は修復であった可能性もある。
  38. ^ 「一、安阿弥作 本尊阿弥陀如来尊壱躰 但立像御丈三尺 同後光御臺座 右者親氏君御寄附」(『新古什物帳』[55]

出典

  1. ^ 松平町誌 1976, pp. 170.
  2. ^ 豊田市史一 1976, pp. 516.
  3. ^ 岡崎市史二 1981, pp. 446.
  4. ^ a b c 松平町誌 1976, pp. 775.
  5. ^ 空間文化開発機構 2014, pp. 2.
  6. ^ a b c d e 古記録集成 2009, pp. 139.
  7. ^ 古記録集成 2009, pp. 18.
  8. ^ 中根 1993, pp. 10.
  9. ^ 宇野 1994, pp. 85.
  10. ^ 松平町誌 1976, pp. 85.
  11. ^ 松平町誌 1976, pp. 161.
  12. ^ 松平町誌 1976, pp. 163.
  13. ^ 古記録集成 2009, pp. 140.
  14. ^ a b c 古記録集成 2009, pp. 141.
  15. ^ 古記録集成 2009, pp. 142.
  16. ^ 古記録集成 2009, pp. 143.
  17. ^ 平野 2010, pp. 40.
  18. ^ a b 岡崎市史二 1981, pp. 447.
  19. ^ 柴田 1934, pp. 17.
  20. ^ a b c 古記録集成 2009, pp. 20.
  21. ^ 古記録集成 2009, pp. 150.
  22. ^ 柴田 1934, pp. 33.
  23. ^ 古記録集成 2009, pp. 184.
  24. ^ 古記録集成 2009, pp. 144.
  25. ^ a b 松平町誌 1976, pp. 183.
  26. ^ 古記録集成 2009, pp. 146.
  27. ^ 古記録集成 2009, pp. 149.
  28. ^ 柴田 1934, pp. 53.
  29. ^ 松平町誌 1976, pp. 222.
  30. ^ 松平町誌 1976, pp. 236.
  31. ^ a b 豊田市史二 1981, pp. 84.
  32. ^ 豊田市史二 1981, pp. 130.
  33. ^ 宮川 1936, pp. 12.
  34. ^ a b 古記録集成 2009, pp. 153.
  35. ^ 古記録集成 2009, pp. 155.
  36. ^ 古記録集成 2009, pp. 157.
  37. ^ a b 古記録集成 2009, pp. 158.
  38. ^ 古記録集成 2009, pp. 159.
  39. ^ 古記録集成 2009, pp. 215.
  40. ^ 松平町誌 1976, pp. 776.
  41. ^ a b c d e f g h 空間文化開発機構 2014, pp. 3.
  42. ^ 考古Ⅲ 2017, pp. 402.
  43. ^ 古記録集成 2009, pp. 137.
  44. ^ 浄土宗寺院 1998, pp. 245.
  45. ^ 建築 2016, pp. 44.
  46. ^ a b 建築 2016, pp. 45.
  47. ^ a b 浄土宗寺院 1998, pp. 246.
  48. ^ 浄土宗寺院 1998, pp. 26.
  49. ^ 松平町誌 1976, pp. 774.
  50. ^ a b 豊田市史六 1978, pp. 601.
  51. ^ a b c d e 考古Ⅲ 2017, pp. 403.
  52. ^ 空間文化開発機構 2014, pp. 29.
  53. ^ 中根 1993, pp. 159.
  54. ^ 空間文化開発機構 2014, pp. 31.
  55. ^ 古記録集成 2009, pp. 118.
  56. ^ 美術・工芸 2014, pp. 300.
  57. ^ a b c 美術・工芸 2014, pp. 343.
  58. ^ 松平町誌 1976, pp. 813.
  59. ^ 豊田市史六 1978, pp. 570.
  60. ^ a b c d 豊田市史六 1978, pp. 571.


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高月院

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松平郷」の記事における「高月院」の解説

高月院は愛知県豊田市松平町寒ヶ入44にある寺。 1367年足助重政建立した伝えられる建立当時寂静寺呼ばれていたが 1377年松平親氏堂塔寄進してから高月院となり、以後松平氏菩提寺となる。 1602年には、徳川家康より100石下賜されるなど、江戸幕府保護を受ける。 山門本堂徳川家光の命により1641年建てられたものとされる境内には初代松平親氏及び第二松平泰親の墓もあるほか、第七住職存牛松平親忠の子であった関係で、親忠夫人の墓も並んで配されている。

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