薩摩藩の大奥工作
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「薩摩藩の大奥工作」の解説
薩摩藩側はさらに大奥に手を回した。大御所家斉はいまだ実権を保持しており、大奥から手を回して島津家出身の正妻を通して家斉を動かすことによって事態を好転させようと試みたのである。薩摩藩側から大奥への工作は、薩摩藩の長崎商法の差し止めは琉球と清国に対して損害を与えることになり、結果として国際問題になりかねないとの内容の願書の提出であり、天保10年(1839年)中に都合3回行われたことが確認されている。この嘆願書は長崎奉行の田口喜行、戸川安清に検討させた。当初田口、戸川の両長崎奉行は薩摩藩の訴えに理解を見せた回答書を提出したが、やはり水野忠邦の強硬な書き換え要求に従った形で、天保10年末に差し止めを行うべきとの内容の報告を提出するに至った。 天保11年3月11日(1840年4月24日)、薩摩藩の長崎商法の停止命令解除要請は認められない旨、薩摩藩側に通告された。その一方で将軍家慶就任の慶賀使の参府が間近いことを考慮して、薩摩藩に向こう3年間5000両を幕府から支給することを決定した。そして翌4月、幕府は長崎会所を通じて長崎の中国人商人たちに、薩摩藩の長崎商法が差し止めとなったことを通告するように指示した。水野忠邦に主導された幕閣は、長崎商法の復活を拒絶することによって貿易に対する統制力を取り戻すとともに、5000両の給付によって琉球の困窮にも配慮する姿勢を見せることにより、幕府の威信が傷つかないよう事態を処理することにしたのである。
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