薩摩藩の楠社創建計画
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国家として楠木正成を祭祀する神社を創建するべきだと最初に建白したのは薩摩藩であった。藩士折田要蔵(折田年秀)が楠社創建をその主張を始めたのだった。折田要蔵は昌平坂学問所や藤田東湖の塾で学び、正成崇拝の思想も水戸学の影響を強く受けたとみられる。文久3年(1863年)、島津久光に付き添って、上京したおりの11月15日に建白を行っている。 近年異国船屡近海ニ出没シ、漸ク国家多難ノ形ニ付テハ、楠正成ノ祠廟ヲ建設シ、尊王護国ノ祈念ヲ凝ラシ申度候、抑正成ヲ初メ、五十余年ノ久シキ楠氏一門ノ肝脳ヲ砕キ、皇室ノ艱難ニ塗ラス、天下蓋世ノ烈忠節義、其霊魂ヲ廟祠セサルハ欠典ト奉存候、苟モ朝儀ニ法り、之レヲ永世ノ祀典ニ列シ、御旌表於被為在ハ、海内ノ志士仁人ヲ激発シ、臣子世教ノ一助ニ可相成儀ト奉存候問、此段建白仕候、以上。 文久二年辛酉十一月十五日 折田要蔵 国家の多難の情勢なので、楠公社を建て、尊王護国を祈念することを主張している。50年間余り、皇室に忠義を尽くした楠公が祀られていないというのは、礼典が欠けているとしている。もし祀られれば、志士たちを「激発」させる一助になるだろうとしている。折田要蔵はのちに湊川神社初代宮司となり、半生を湊川神社に尽くすこととなる。 なお文面には文久2年(1862年)とあるが森田康之助によると、文久3年(1863年)の誤りであるという。文久2年の干支は壬戌であり、辛酉ではない。また辛酉は文久元年である。両方とも誤りで、本人の記憶違いにより記録されてしまったと推測している。 この建白を受けて、元治元年(1864年)2月9日、島津久光は薩摩藩京都留守居役の内田仲之助を通して摂津国八部郡に南朝の忠臣らを合祀した神社を建てる事を建白する。 近来海外之夷艦屡神州へ致到来、国事多事、実ニ不容易の形勢ト奉存候。然は此度摂津国八部郡造立一社、奉始二品兵部卿護良親王、贈正三位左近衛中将橘正成、一品准后源親房卿其他元弘延元之際、勤王尽力殉国難候輩之忠魂を、謹て崇記仕、凝護国討夷之大願申度奉存候。依之彼地へ神社造立被仰付度奉願候様申付候間。此段申上候、以上。 島津大隅守内 二月 内田仲之助 護良親王、楠木正成を始め、北畠親房などの功臣を合祀して一つの神社に祀り、攘夷を実現することを祈願したいとしている。さきの折田の建白と異なるのは、正成だけでなく、南朝忠臣を合祀する神社を計画してるところである。正成に限らず南朝功臣を広く顕彰する向きは、既に一般的になってきていたのである。また社地に関して折田の建白だと場所は指定されていなかったが、この建白では摂津国八部郡と楠公墓のあるところを選んでいる。 朝廷は即日この建白を聴許した。 しかし、藩と朝廷が直接結び付こうとするのを幕府が見過ごすわけは無かった。幕府は、その勢い、次第に衰えていっているとはいえ、依然として権威を持つ存在だった。幕府は薩摩藩に対抗して、幕府として楠社を創建することを計画した。ただやはり幕府としても一度勅許されたものを覆すまでのことは出来なかった。幕府はしぶしぶ薩摩藩の楠社創建を認め、4月7日に大坂城代に社地を薩摩藩に与えることを命じた。 それを受けて、6月5日に西郷隆盛、薩摩藩大阪留守居役木場伝内や伊地知正治・吉井幸輔とともに社地を検分している。現存している史料からでは、薩摩藩が意図した明確な社地の位置を特定することができず、どの程度現在地と重なっているのかは分からない。ただ幕末には楠公墓は尊王家たちの聖地となっており、摂津国八部郡と近隣の地域を指定しておきながら、楠公墓から離れて建てるのは不自然で、楠公墓周辺に設定したとするのが自然だろう。木場伝内が中心として、木材の買い付けなどにあたり、創建の準備は次第に整っていった。社地の設定も概ね完了する一方、京都を中心とする近畿圏の社会情勢が緊迫してきた。西郷たちが社地を検分した6月5日には池田屋事件が起こって、長州藩は朝廷に対し、攘夷決行を国策として行うように主張して兵を京に進めており、緊張は急激に高まっていた。そして7月19日に禁門の変が起こり、薩摩藩は長州藩との戦闘状態となり、神社創建に関わっている場合ではなくなってしまった。こうして、楠社創建は一時中断する。
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