薩摩藩の砲術師範とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 薩摩藩の砲術師範の意味・解説 

薩摩藩の砲術師範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 08:21 UTC 版)

成田正右衛門」の記事における「薩摩藩の砲術師範」の解説

天保8年7月12日早朝鹿児島湾山川港入ったモリソン号に、兄の鳥居平八や門人とともに異国船打払令に従って砲撃した。しかし、モリソン号浅瀬投錨し無風動けかったにかかわらず、数100発砲撃しても船には1発し命中せず、しかも何ら損傷与えなかった。モリソン号は、そのまま脱出しマカオへと戻っていった。 従来日本砲術では通じないことを知った薩摩藩は、用人の新納主税長崎派遣した高島秋帆面会し、帰藩した新納は、島津久風藩主島津斉興西洋砲術必要性報告しそれ以来薩摩藩高島流砲術取り入れることとなった。 それを受けて事件翌年天保9年2月平七(正右衛門)は兄の平八とともに長崎派遣されて、高島秋帆門下になった。翌10年1839年5月に、鳥居兄弟は免状受けて、帰藩。 同12年1841年)、再度平八とともに長崎高島秋帆から教え乞い高島流砲術奥伝受けてオランダ小銃100挺を購入して帰藩した。平七薩摩藩西洋砲術師範となって銃砲隊に大砲操練行なった。 翌13年1842年)、薩摩藩高島秋帆仲介で燧発銃を購入し弁天築地でモルチール砲と野戦砲鋳造した藩主の斉興も大砲射撃演習検閲し、野戦教練もおこなわせた。 こうして、薩摩藩軍備はすべて高島秋帆から学んだ西洋砲術へと変遷し鳥居平七がその開祖となった弘化3年1846年)、上町築地現・石記念公園一帯)に鋳製方が設置された際には掛の1人任じられ青銅砲ゲベール銃製造携わった同年8月28日谷山塩屋村(のちの鹿児島市谷山塩屋町)で行われた発火演習では、当時世子であった島津斉彬がこれに臨検し演習終了後成田正右衛門対し21ヵ条の質問をした。その質問は実に正鵠射ており、正右衛門恐縮するばかりであったという。

※この「薩摩藩の砲術師範」の解説は、「成田正右衛門」の解説の一部です。
「薩摩藩の砲術師範」を含む「成田正右衛門」の記事については、「成田正右衛門」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「薩摩藩の砲術師範」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「薩摩藩の砲術師範」の関連用語

1
成田正右衛門 百科事典
36% |||||

薩摩藩の砲術師範のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



薩摩藩の砲術師範のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの成田正右衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS