薩摩藩の砲術師範
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天保8年7月12日早朝、鹿児島湾の山川港に入ったモリソン号に、兄の鳥居平八や門人とともに、異国船打払令に従って砲撃した。しかし、モリソン号は浅瀬に投錨し無風で動けなかったにもかかわらず、数100発砲撃しても船には1発しか命中せず、しかも何ら損傷を与えなかった。モリソン号は、そのまま脱出し、マカオへと戻っていった。 従来の日本の砲術では通じないことを知った薩摩藩は、用人の新納主税を長崎に派遣した。高島秋帆と面会し、帰藩した新納は、島津久風と藩主の島津斉興に西洋砲術の必要性を報告し、それ以来、薩摩藩は高島流砲術を取り入れることとなった。 それを受けて、事件の翌年(天保9年)2月、平七(正右衛門)は兄の平八とともに長崎へ派遣されて、高島秋帆の門下になった。翌10年(1839年)5月に、鳥居兄弟は免状を受けて、帰藩。 同12年(1841年)、再度平八とともに長崎で高島秋帆から教えを乞い、高島流砲術奥伝を受けて、オランダの小銃100挺を購入して帰藩した。平七は薩摩藩の西洋流砲術の師範となって、銃砲隊に大砲操練を行なった。 翌13年(1842年)、薩摩藩が高島秋帆の仲介で燧発銃を購入し、弁天築地でモルチール砲と野戦砲を鋳造した。藩主の斉興も大砲射撃演習を検閲し、野戦教練もおこなわせた。 こうして、薩摩藩の軍備はすべて高島秋帆から学んだ西洋砲術へと変遷し、鳥居平七がその開祖となった。 弘化3年(1846年)、上町向築地(現・石橋記念公園一帯)に鋳製方が設置された際には掛の1人に任じられ、青銅砲やゲベール銃の製造に携わった。 同年8月28日に谷山郷塩屋村(のちの鹿児島市谷山塩屋町)で行われた発火演習では、当時世子であった島津斉彬がこれに臨検し、演習終了後に成田正右衛門に対し21ヵ条の質問をした。その質問は実に正鵠を射ており、正右衛門は恐縮するばかりであったという。
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