薩摩藩の挑発と幕臣の怒り
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「小御所会議」の記事における「薩摩藩の挑発と幕臣の怒り」の解説
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}大政奉還により武力討幕の大義名分を失って以降、西郷は旧幕府側を挑発するという策略に出る。江戸の益満休之助や伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて江戸市中に殺人、放火、掠奪、強姦など凶悪犯罪を行わせた[要出典]。江戸警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日に勘定奉行小栗忠順ら幕閣の了承の下、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)の江戸藩邸を焼き討ちするという事件が発生した。 詳細は「江戸薩摩藩邸の焼討事件」を参照 大目付滝川具挙、勘定奉行並小野友五郎らによって、江戸の薩摩藩邸焼き討ちの報が28日に大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩討つべしとの主戦論が沸騰し、翌慶応4年(1868年)正月3日、『討薩表』を携えて朝廷に訴えようとした旧幕府勢が鳥羽で薩摩・長州藩兵と衝突し、戦闘となった。 詳細は「鳥羽・伏見の戦い」を参照 戦いは旧幕府方の敗北となり、慶喜は大坂城を脱出して江戸へ退却。ここに慶喜は正式に朝敵となり、追討令が出されるに至った。慶喜寄りの諸侯会議派もまた、この戦いの結果、倒幕派への転向を余儀なくされたのである。
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