薩摩藩の特徴と財政難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 21:16 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「薩摩藩の特徴と財政難」の解説
薩摩藩は鎌倉時代以来の領主である島津家によって統治され、日本国内では辺境に位置しているという地理的条件も加わって、独自の支配構造を持っていた。 薩摩藩の独自の支配構造の特徴としては、 幕府を中心とした幕藩体制に順応しながらも、農村部に在住する在郷家臣が存続し続ける等、中世以来の支配構造が温存された点も多く、領内では人的支配、統制が強固に働いていた。また支藩などに対しても強い統制力を加えていた。 全国的に見ると知行制から蔵米支給へと変わっていく中で、薩摩藩は知行制を維持し続けていた。 在郷家臣は農村の実力者として農民に対して強い支配を続けた。その結果、農民の自立度は江戸時代を通じて極めて低く、余剰農作物や特産品等による利潤は、ほぼすべてを在郷家臣層や領主が吸い上げていく構造となっていた。 農民層の自立度の低さに加え、農村における利潤がほぼ武士階級に吸い上げられていたため、領内では自立的商業の発展はほぼ見られなかった。その一方で領主層が主導する長崎、大坂等を舞台とする交易が活発に行われ、その中で藩と結びついた特権商人層が生まれた。 九州は歴史的に外国との交易が盛んであり、諸外国に対する関心度が高かった。中でも薩摩藩は琉球王国を通じた琉球貿易に携わって利益を挙げており、また幕府の禁令にも関わらず密貿易がしばしば噂されていた。幕末が近づいて幕府の支配力が低下していくと、外国との交易や軍制改革に積極的に取り組むようになり、その取り組みを領主層が主導する交易による利潤が支えた。 などが挙げられる。 これらの薩摩藩の支配構造によって構造的に生み出されてきたのが藩の財政難である。薩摩藩は江戸時代初期の藩政初期から財政的には恵まれなかったが、領主層の支配、統制が強く働き、農民層の自立が阻害される中で農業の生産性は低水準のまま推移し、結果として年貢収入が上がることはなく、慢性的な財政難に悩まされるようになった。
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