薩摩藩の天保改革の責任者となる
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「調所広郷」の記事における「薩摩藩の天保改革の責任者となる」の解説
調所らの活躍によって薩摩藩の長崎商法は利益を挙げるようになったものの、薩摩藩の財政状況は悪化の一途を辿っており、借金は雪だるま式に膨らんでいった。文政末年、藩の借金は約500万両に達した。藩庫は底をつき、江戸詰めの藩士の俸給が10カ月余り支給できなくなり、藩士の不満は高まっていた。 危機的な状況の藩財政立て直しのため、重豪がまず改革責任者として選んだのは大坂藩邸の金方物奉行であった新納時升であったが、新納は重豪の要請を断った。新納は財政改革の適任者について、自分は大坂商人との付き合いが深く、これまでの恩を仇で返すことは出来ない。これまで大坂の人と縁が無い人物が行うのが良いと述べていた。新納が断った後、改革責任者に選ばれたのが側用人の高橋甚五兵衛であった。しかし高橋の改革への取り組みは挫折する。 高橋甚五兵衛による改革失敗を受けて、責任者の候補になったのが調所であった。調所は重豪から改革責任者になるよう命じられたが、最初は断った。これまで財政面でのキャリアを積み重ねてきたわけではなく、また財政改革への試みは挫折してきており、とうてい成功はおぼつかなかったためである。命令を断った調所に対し、重豪は長脇差を掴み、「側役は主人と生死をともにする職であるが、これほどの危急切迫の場に追い込まれているというのに、命令を断るとはどんなつもりか」と、調所を斬り捨てんばかりの剣幕で詰め寄った。調所は「やむを得ません、引き受けます」。と答えざるを得なかった。こうして調所は薩摩藩の財政改革責任者となった。文政11年(1828年)6月頃のことであったと考えられている。文政6年6月に調所は高50石を与えられており、これまでの無高から高持ちとなった。これは無高の改革責任者では都合が悪いとの判断であったと考えられている。
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