薩摩藩の財政再建路線と長崎商法の開始
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「薩摩藩の財政再建路線と長崎商法の開始」の解説
19世紀初頭、深刻化した財政難の改善を目指し、薩摩藩主島津斉宣は藩政改革に着手する。斉宣の改革の中で財政再建の柱として期待されたのが琉球貿易による利益の拡大であった。文化元年(1804年)6月、薩摩藩はこれまで幕府から認められていた白糸、紗綾に替えて、蘇木、鼈甲、てぐすの三品目の銀1000貫目分の藩外での販売許可を申請した。しかし幕府側はこれら3品目の販売が長崎貿易品の売れ行きに悪影響をおよぼすとして認めなかった。 薩摩藩側は文化2年(1805年)11月、同様の許可を再申請した。この時も幕府は申請を却下したが、その一方で広東や福建の産品で長崎に稀に輸入される品目の中から許可を申請するようにアドバイスした。そこで薩摩藩は文化3年(1806年)、当初の3品目から蘇木を外し、鼈甲、てぐす、その他広東や福建の物産についての長崎での販売許可を申請することにした。 そのような中で薩摩藩内では大きな動きがあった。藩主斉宣の藩政改革に対し、人事面や制度改革の進め方に対して前藩主の島津重豪が反発し、改革を主導していた斉宣の側近たちは切腹となり、文化6年(1809年)には斉宣自身も藩主の座を子の島津斉興に譲り、隠居を余儀なくされた。これが近思録崩れである。斉宣の隠居後、島津藩政を主導したのは重豪であった。重豪も斉宣の藩政改革と同様に、財政再建の柱として琉球貿易の利益拡大を進めた。 文化7年(1810年)9月、5年間の期限付きではあったが、幕府は長崎にて琉球貿易で入手した福州手薄紙、鉛、緞子など8品目、一年間の銀高30~40貫目程度の販売を許可した。長崎会所としては福州手薄紙などの販売はまだしも、緞子などについては長崎での貿易に悪影響を与えるとして反対していた。文化7年の許可は琉球貿易で販売が認められていた白糸、紗綾の販売が振るわない上に、重豪の三女は時の将軍、徳川家斉の御台所、広大院であり、島津家と将軍家との姻戚関係を利用したものでもあった。長崎会所側としては薩摩藩の実権を握る島津重豪が将軍家との姻戚関係を利用して、長崎での唐物販売の品目や販売額を増やしていくことに対して強い警戒感を隠さなかった。 このようにして薩摩藩は、琉球貿易で入手した中国製品の長崎での販売に突破口を開いたものの、認可当時の幕閣は老中首座松平信明を筆頭に、寛政の遺老と呼ばれた寛政の改革の改革路線を引き継ぐ人材によって主導されていた。薩摩藩側は長崎で認められた販売額が一年間で銀高30~40貫目程度では、利益が少なすぎて琉球救援の実が挙げられないとして、文化7年9月の認可時点から品目と金額の増加を幕府に要請し、その後も連年同様の要請を続けていたが、幕府はその都度要請を断り続けていた。
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