『英国策論』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:21 UTC 版)
詳細は「英国策論」を参照 1866年(慶応2年)3月から5月にかけて週刊英字新聞『ジャパン・タイムズ』(横浜で発行)に匿名で論文を掲載。この記事が後に『英国策論』という表題で、サトウの日本語教師をつとめた徳島藩士・沼田寅三郎によって翻訳出版され、大きな話題を呼ぶ。西郷隆盛らも引用したとされ、「明治維新の原型になるような一文」ともされる。 『英国策論』の骨子は以下の通り。 将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席にすぎず、現行の条約はその将軍とだけ結ばれたものである。したがって現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できないものである。 独立大名たちは外国との貿易に大きな関心をもっている。 現行条約を廃し、新たに天皇および連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。 横浜の大火の後、公使館が江戸高輪の泉岳寺前に移ると、近くの門良院で来日したばかりの2等書記官アルジャーノン・ミットフォードと同居した。パークスの訓令により、予定されている大名会議や長州征討の事後処理について、また兵庫開港問題や一橋慶喜の動向などについて情報収集するために長崎を訪問した。 1866年末から1867年(慶応3年)始めにかけて、鹿児島・宇和島・兵庫を訪問、大坂から来た西郷隆盛と会い、薩摩藩の考えを聞いた。宇和島では前藩主・伊達宗城が『英国策論』を読んでいたことを知った。このころはまだ不十分な日本語ながらハリー・パークスの通弁として地方視察に同行し、各地で談判の通弁に当るたびに記念に金の輪を腕に増やしていた姿が目撃されている。
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