第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題とは? わかりやすく解説

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第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:30 UTC 版)

江戸時代」の記事における「第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題」の解説

禁門の変理由幕府は、第一次長州征伐7月24日)を決行同時期に英米4か国艦隊反撃遭い上陸され砲台占拠された(四国艦隊下関砲撃事件)(8月5日)。同14日長州藩は4国艦隊講和5条件を結ぶ。その後高杉晋作木戸孝允らが藩政掌握した禁門の変での長州朝敵化に幕府権威回復錯覚し1864年元治元年9月1日参勤交代の制を1862年改正(閏8月22日3年1回出府などに緩和以前に戻す。9月11日大坂宿舎で、西郷と勝が会合した西郷は、勝から「共和政治」(雄藩諸侯合議制による連合政権)について聞き感心する1865年元治2年5月16日将軍江戸出立し、閏5月22日入京参内、同25日大坂城入城した同年9月15日将軍大阪発ち同月16日入京し、長州追討勅許奏請した。 このような情勢下、1866年慶応2年1月21日薩摩長州政争繰り返していた西国雄藩坂本龍馬中岡慎太郎周旋により、西郷との間で口頭の抗幕同盟密約薩長同盟)された。1866年慶応2年6月7日幕府第二次長州征伐決行するが、高杉晋作組織した奇兵隊などの士庶混成軍の活躍阻まれまた、総指揮者である将軍徳川家茂7月20日大坂城病没するなどもあり、8月21日将軍死去のため征長停止沙汰書が出され9月2日に幕長休戦協定する12月25日天皇疱瘡のため36歳没する。諡(おくりな)を孝明天皇定められた。 折から幕法に反して京都藩邸を置く諸大名制御できず、京都治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制根幹である「武士」の武力対す信頼とその権威は、この敗北によって急速になくなっていった。薩長は、土佐藩肥前藩をも巻き込み開国以来違勅条約対す反対論外国人排撃主張実行移そうとする「攘夷」を、国学進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての尊王論とを結びつけ、「尊王攘夷」を旗頭に「倒幕」の世論形成していった。 14代将軍・家茂没してから約4か月後の1866年慶応2年12月5日将軍宣下式が挙行され慶喜15代将となったこの期間を「将軍空位期」と呼ぶ。慶喜は、早速幕府人事改革取り組み若年寄り老中などの幕閣責任分担する制度改めたまた、仏国駐日公使ロッシュ助言参照し軍体制の近代化外交権掌握などを行った一方国内状況では、この年1866年慶応2年))、全国的に農民一揆打ちこわしなど未曾有多発激化した

※この「第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題」の解説は、「江戸時代」の解説の一部です。
「第一次・第二次長州征伐、兵庫開港問題」を含む「江戸時代」の記事については、「江戸時代」の概要を参照ください。

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