民族意識の高まり
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「スロベニアの歴史」の記事における「民族意識の高まり」の解説
ヨーゼフ2世は中央集権化を進めたが、それに伴い地方政府への限定的ながらも権限が委譲されることとなった。そして、ロマン主義活動が開始されたことにより、ドイツ人のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーはスラヴ人らにも自らの言葉や古く伝わる風習・伝承(フォークロア)を研究して発展させることを呼びかけた。そのため、スロベニア人らもこの活動に反応した。そのため、鉱山経営者ジーガ・ツォイス男爵 (en) の支援の元、作家グループが形成され、その中には言語学者のイェルネイ・コピタル (en) や聖職者のヴァレンティン・ヴォドニック (en) らが参加していた。コピタルはスロベニア方言の統一を行い、さらにドイツ語の要素を排除したスロベニア語文法書を出版、さらにはセルビア・クロアチア語改革者ヴーク・カラジッチと共同作業を進めてスロベニア語の音声学的正書法を確立させた。このため、スロベニア語が整備されることとなり、後にスロベニア最大の詩人といわれるフランツェ・プレシェーレンらが生まれることとなる。 さらに「農業・実務協会」が政府の支援の下、形成されたがこの組織ではラテン語が使用され、さらにスロベニア系学識者が現れることとなる。ヤネス・ジーガ・ヴァレンティン・ポポヴィッチ(sl)は「海洋の研究」をドイツ語で著し、ユーリィ・ヴェガ (en) は「対数学大全 (en) 」をラテン語で著した。さらにスロベニア以外でもその活動は広がる事となり、ブルターニュのベルシャザール・アケ (en) は「カルニオラ地誌(Plantae alpinae carniolicae)」を出版、スロベニアにおける言葉の違い、方言、文化的、地域的特徴が研究された。 そして教会でもヤンセン主義(厳格主義)がユトレヒトから伝わった事により、リュブリャナ司教座 (en) はその影響を受け、K・J・ヘルベシュタイン司教はこれを熱心に支持、その影響を受けた人々らは聖書の翻訳を行ったが、この翻訳作業は他の分野へも波及した。そのため、公教要理、福音書講話、祈祷書、旧約聖書詩篇などが翻訳され、スロベニア語の文語成立に多大な貢献を収めることとなり、さらにスロベニア人知識層にも影響を与えることとなった。 この文学面で生まれたこの活動はやがて政治にも影響を及ぼす事となり、同時期に発生したフランス革命の思想的影響を受けたヴァレンティン・ヴォドニックはスロベニア初の新聞社を1797年に設立、「ルブランスケ・ノヴィツェ(リュブリャナ新聞)(sl)」を発行した。さらにフランスはナポレオン・ボナパルトの登場によりその領土を拡大し続け、スロベニアもその領域と化したが、ナポレオンはスロベニアに関心を持っていたため、1805年、1809年とハプスブルク帝国との戦いの際にはドイツ語、フランス語などで各地の習慣を尊重するという宣言文を作成しているが、この中にはスロベニア語で作成されたものも含まれていた。1809年、ナポレオンはウィーン条約によりカルニオラ、カリンティア西部、ゴリツィア、イストリア半島、クロアチアの一部、ダルマチア、ドゥブロヴニクをハプスブルク帝国より割譲を受け、「フランス領イリュリア諸州」を形成、州都はリュブリャナにおかれる事となった。 フランス領イリュリア諸州となった事により農奴制こそ廃止されなかったが、この地域ではフランス式の行政制度やナポレオン憲法が適用されることとなった。そのため、スロベニア語の使用が推奨され、行政機関にもスロベニア人らが登用されることとなり、さらにフランス語を習得している者が少ないという理由で役所でもスロベニア語が使用される事が認められた。そして知識人らもフランスの政策に共感を示し、ヴォドニックは「イリリアの再生」という詩をナポレオンに捧げ、さらに1810年にはグラーツで「スロベニア人協会」が設立されることとなり、その2年後にはグラーツの高等学校において「スラヴ研究講座」が設置されることとなる。 この中、スロベニアでもイリュリア運動 (en) が活発化することとなり、スロベニア語がクロアチア語のカイ方言 (en) と近い事からスロベニア語、クロアチア語、そして南スラヴ系諸言語の統一を提案したものも存在した。この中で最も代表的な人物としてスタンコ・ヴラース(sl)が上げられるが、彼はプレーシェンやクロアチアのリュデヴィト・ガイ (en) らとを親交を持ち、スロベニア語、クロアチア語を混合した「イリュリア語」で詩を発表したが、結局、これは良い結果を残す事ができなかった。 フランス占領下でスロベニアでは民族意識が高まる事となったが、その一方で「コンコルダート」が適用され、さらに軍事支出のための増税、徴兵制の負担などが強いられることとなっていた。しかし、1815年、ナポレオンが敗れたことにより、ウィーン条約が結ばれるとスロベニアは再びハプスブルク帝国領となった。ダルマチアとラグーザはオーストリアに併合され、イストリア、カリンティア、カルニオラ (en) などは新たにイリュリア王国 (en) を形成することとなり、オーストリアの一部と化すこととなった。また、クロアチア、スラヴォニアはハンガリー領と化している。 ハプスブルク帝国においてクレメンス・メッテルニヒが政権を担う事となると行政面、教育面において再びドイツ要素が強まる事となり、スロベニア人作家らも政府に監視されることとなった。これはメッテルニヒが旧来の国際秩序を維持したいと考えていたためであったが、この政策により、ハプスブルク帝国内の民族感情は抑圧されることとなる。しかし、ウィーンで1848年革命が勃発するまでのフォアメルツ (en) と呼ばれるこの期間、スロベニアでは作家たちがスロベニアにおける文学創作活動水準を高めるための努力を行っており、さらにはヤネス・ブライワイス (en) が「ノヴィツェ(ニュース) (en) 」という名の新聞を発行、この新聞は経済、農業問題だけでなく政治問題まで記事にした。また、工業面においては最初の手工業が開始された時期でもあり、繊維業や製糖業では蒸気機関が導入されることとなった。 1848年革命の時期、スロベニア人らは自らの権利拡大のための活動を開始したが、農民たちは議会で封建制の廃止が決定された時点で革命に興味を失っていた。しかし、結社「スロベニア」が結成された上で言語境界内部にスロベニア人の土地を集めて「州(ラント)」を形成して民族権利の保障、スロベニア語がドイツ語、イタリア語と対等であること、全ての言語が学校教育において使用されることを150万人のスロベニア人の名において1848年4月に宣言した。しかし、この宣言は一部の小さなグループの支持は得たものの、封建領主やドイツのリベラルな中産階級は反対、それに対してスロベニア人らはフランクフルト国民議会ではスロベニア人が参加する意味がないとして参加を拒否した。このとき、法律家ヨシブ・クラーニェは「世界の一人たりともスロベニア人に対して死ぬのが怖いのなら自殺すれば良いなどと言う事はできない」と発言している。1849年、ハプスブルク帝国はイリュリア王国を廃止してカルニオラ、カリンティア、キュステンラント (en) を「クローンレンダー(Kronland、皇帝直轄地) (en) 」とした上で限定的な自治権を与えた身分制議会を置いたが、アレキサンダー・フォン・バッハ (en) の時代、自治権が著しく制限を受ける事となる。その最中の1853年、スロベニア語文学作品出版を行うために「モホリェヴァ・ドルージュバ(聖エルマゴール協会)」(sl)が設立されている。 1860年10月、勅書が下されることにより新たな憲法が制定されたが、スロベニア人らは地方議会から排除されることにより少数派ドイツ人らが権力を握った。そのため、スロベニア人が圧倒的多数であったカルニオラ州においてもスロベニア語で記された議会報告書の閲覧申請が行われても拒否されるような状態であった。さらに1867年にハンガリー王国が独立したことによりオーストリア=ハンガリー帝国が形成されてハンガリー人らがドイツ人と対等な地位を得る事となったが、スロベニア人らにはなんら影響がなかった。しかし、選挙法が何度も改正されたことにより、民主主義が徐々に取り入れられたことによりこれらの問題が政治的課題として表現され始めたため、1867年、選挙法改正によりスロベニア民族党の結成が許可された。 このスロベニア民族党はそれまで「リベラル派」と「保守派」に分かれていた派閥が「統一スロベニア (en) 」を形成する目的で集まったものであり、さらに1861年以降、トリエステでスロベニア語を守るため発生した活動により読者協会「チタルニツェ」が結成されることとなった。1867年の選挙ではカルニオラの州議会(ラントターク)で史上初となるスロベニア人らが多数を占める事態に至った。さらに、この直前、普墺戦争に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国はスロベニア人らの居住地域をイタリアへ割譲するという問題が発生したことにより、1868年から1871年にかけて「ターボル」と呼ばれる集会がスロベニア人居住区全体で開催され、「統一スロベニア」への支持を行った。そのため、1892年にはキリスト教運動に関係した農民らが集まったカトリック民族党 (en) が、さらに1894年には進歩民族党が結成された。 カトリック民族党が1899年にローマ教皇レオ13世が出した「レールム・ノヴァルム(回勅) (en) 」の実現を要求して政治にも大きな影響を持つ事となったが、その一方で少数派であるリベラル派は都市部の中産階級を中心に支持を集め、リュブリャナ大学の設立を要求した。しかし、これらの活動が行われたにもかかわらず、「ライヒスラート(帝国議会) (en) 」では議席配分によって不利益を受けていた。その状況の中、ドイツ人らはトリエステに至る「ドイツ人の橋」を維持するために強い圧力をスロベニアにかけ続けた。そのため、カトリック民族党はクロアチア権利党 (en) との連携を模索、スロベニアの政治家らはクロアチアの政治家らにオーストリア=ハンガリー帝国にさらにスロベニア人、クロアチア人らスラヴ人の国家を形成して「三重帝国とする構想(トリアリズム)」を持ちかけた。しかし、皇太子フランツ・フェルディナントはこの構想について考慮してスロベニア人を除外したクロアチア人の国家形成を方針として採用しようとしたが、結局、この構想は「ユーゴスラビア構想」へつながる事となり、例えばクロアチア国民党 (en) の指導者ヨシプ・シュトロスマイエル (en) と歴史家フラニョ・ラチュキ (en) らはセルビア公国を基礎とする南スラヴ人による統一国家を構想しており、さらにクロアチアとセルビアの政治家らの間で交わされた「リエカ合意」と「ザダル決議」によりクロアチア・セルビア人連合が形成されたが、この中にはスロベニアも含まれていた。
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