民族意識の高まりとは? わかりやすく解説

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民族意識の高まり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:59 UTC 版)

スロベニアの歴史」の記事における「民族意識の高まり」の解説

ヨーゼフ2世中央集権化進めたが、それに伴い地方政府への限定的ながらも権限委譲されることとなった。そして、ロマン主義活動開始されたことにより、ドイツ人ヨハン・ゴットフリート・ヘルダースラヴ人らにも自らの言葉古く伝わる風習伝承(フォークロア)を研究して発展させることを呼びかけた。そのため、スロベニア人らもこの活動反応した。そのため、鉱山経営者ジーガ・ツォイス男爵 (en) の支援の元、作家グループ形成され、その中には言語学者イェルネイ・コピタル (en) や聖職者ヴァレンティン・ヴォドニック (en) らが参加していた。コピタルはスロベニア方言統一行い、さらにドイツ語要素排除したスロベニア語文法書出版さらにはセルビア・クロアチア語改革者ヴーク・カラジッチ共同作業進めてスロベニア語音声学正書法確立させた。このためスロベニア語整備されることとなり、後にスロベニア最大詩人といわれるフランツェ・プレシェーレンらが生まれることとなる。 さらに「農業実務協会」が政府支援の下、形成されたがこの組織ではラテン語使用され、さらにスロベニア学識者現れることとなる。ヤネス・ジーガ・ヴァレンティン・ポポヴィッチ(sl)は「海洋研究」をドイツ語著し、ユーリィ・ヴェガ (en) は「対数学大全 (en) 」をラテン語著した。さらにスロベニア以外でもその活動広がる事となり、ブルターニュのベルシャザール・アケ (en) は「カルニオラ地誌(Plantae alpinae carniolicae)」を出版スロベニアにおける言葉違い方言文化的地域的特徴研究された。 そして教会でもヤンセン主義(厳格主義)がユトレヒトから伝わった事により、リュブリャナ司教座 (en) はその影響を受け、K・J・ヘルベシュタイン司教はこれを熱心に支持その影響受けた人々らは聖書の翻訳行ったが、この翻訳作業他の分野へも波及した。そのため、公教要理福音書講話祈祷書旧約聖書詩篇などが翻訳されスロベニア語文語成立多大な貢献収めることとなり、さらにスロベニア人知識層にも影響与えることとなった。 この文学面生まれたこの活動はやがて政治にも影響を及ぼす事となり、同時期に発生したフランス革命思想的影響受けたヴァレンティン・ヴォドニックスロベニア初の新聞社1797年設立、「ルブランスケ・ノヴィツェ(リュブリャナ新聞)(sl)」を発行した。さらにフランスナポレオン・ボナパルト登場によりその領土拡大し続けスロベニアもその領域化したが、ナポレオンスロベニア関心持っていたため、1805年1809年ハプスブルク帝国との戦いの際にはドイツ語フランス語などで各地習慣尊重するという宣言文作成しているが、この中にはスロベニア語作成されたものも含まれていた。1809年ナポレオンウィーン条約によりカルニオラカリンティア西部ゴリツィアイストリア半島クロアチア一部ダルマチアドゥブロヴニクハプスブルク帝国より割譲を受け、「フランス領イリュリア諸州」を形成州都リュブリャナおかれる事となった。 フランス領イリュリア諸州となった事により農奴制こそ廃止されなかったが、この地域ではフランス式行政制度ナポレオン憲法適用されることとなった。そのため、スロベニア語使用推奨され行政機関にもスロベニア人らが登用されることとなり、さらにフランス語習得している者が少ないという理由役所でもスロベニア語使用される事が認められた。そして知識人らもフランス政策共感示し、ヴォドニックは「イリリア再生」という詩をナポレオン捧げ、さらに1810年にはグラーツで「スロベニア人協会」が設立されることとなり、その2年後にはグラーツ高等学校において「スラヴ研究講座」が設置されることとなる。 この中スロベニアでもイリュリア運動 (en) が活発化することとなり、スロベニア語クロアチア語カイ方言 (en) と近い事からスロベニア語クロアチア語、そして南スラヴ諸言語統一提案したものも存在したこの中で最も代表的な人物としてスタンコ・ヴラース(sl)が上げられるが、彼はプレーシェンやクロアチアのリュデヴィト・ガイ (en) らとを親交持ちスロベニア語クロアチア語混合したイリュリア語」で詩を発表したが、結局、これは良い結果を残す事ができなかった。 フランス占領下スロベニアでは民族意識が高まる事となったが、その一方でコンコルダート」が適用され、さらに軍事支出のための増税徴兵制負担などが強いられることとなっていた。しかし、1815年ナポレオン敗れたことにより、ウィーン条約結ばれるスロベニアは再びハプスブルク帝国となったダルマチアラグーザオーストリア併合されイストリアカリンティアカルニオラ (en) などは新たにイリュリア王国 (en) を形成することとなり、オーストリア一部化すこととなったまた、クロアチアスラヴォニアハンガリー領と化している。 ハプスブルク帝国においてクレメンス・メッテルニヒ政権を担う事となると行政面、教育面において再びドイツ要素が強まる事となり、スロベニア人作家らも政府監視されることとなった。これはメッテルニヒ旧来の国際秩序維持したい考えていたためであったが、この政策により、ハプスブルク帝国内の民族感情抑圧されることとなる。しかし、ウィーン1848年革命勃発するまでのフォアメルツ (en) と呼ばれるこの期間、スロベニアでは作家たちがスロベニアにおける文学創作活動水準高めるための努力行っており、さらにはヤネス・ブライワイス (en) が「ノヴィツェ(ニュース) (en) 」という名の新聞発行、この新聞経済、農業問題だけでなく政治問題まで記事にした。また、工業においては最初の手工業開始され時期でもあり、繊維業製糖業では蒸気機関導入されることとなった1848年革命時期スロベニア人らは自らの権利拡大のための活動開始したが、農民たちは議会封建制廃止決定され時点革命興味失っていた。しかし、結社スロベニア」が結成され上で言語境界内部スロベニア人土地集めて「州(ラント)」を形成して民族権利保障スロベニア語ドイツ語イタリア語対等であること、全ての言語学校教育において使用されることを150万人スロベニア人の名において1848年4月宣言した。しかし、この宣言一部小さなグループ支持得たものの、封建領主ドイツリベラルな中産階級反対、それに対してスロベニア人らはフランクフルト国民議会ではスロベニア人参加する意味がないとして参加拒否した。このとき、法律家ヨシブ・クラーニェは「世界一人たりともスロベニア人に対して死ぬのが怖いのなら自殺すれば良いなどと言う事はできない」と発言している。1849年ハプスブルク帝国イリュリア王国廃止してカルニオラカリンティアキュステンラント (en) を「クローンレンダー(Kronland、皇帝直轄地) (en) 」とした上で限定的な自治権与えた身分制議会置いたが、アレキサンダー・フォン・バッハ (en) の時代自治権著しく制限を受ける事となる。その最中1853年スロベニア語文学作品出版を行うために「モホリェヴァ・ドルージュバ(聖エルマゴール協会)」(sl)が設立されている。 1860年10月勅書下されることにより新たな憲法制定されたが、スロベニア人らは地方議会から排除されることにより少数派ドイツ人らが権力握った。そのため、スロベニア人圧倒的多数であったカルニオラ州においてもスロベニア語記され議会報告書閲覧申請が行われても拒否されるような状態であった。さらに1867年ハンガリー王国独立したことによりオーストリア=ハンガリー帝国形成されハンガリー人らがドイツ人対等な地位を得る事となったが、スロベニア人らにはなんら影響がなかった。しかし、選挙法何度も改正されたことにより、民主主義徐々に取り入れられたことによりこれらの問題政治的課題として表現され始めたため、1867年選挙法改正によりスロベニア民族党の結成許可された。 このスロベニア民族党はそれまでリベラル派」と「保守派」に分かれていた派閥が「統一スロベニア (en) 」を形成する目的集まったものであり、さらに1861年以降トリエステスロベニア語を守るため発生した活動により読者協会「チタルニツェ」が結成されることとなった1867年選挙ではカルニオラ州議会(ラントターク)で史上初となるスロベニア人らが多数占め事態至った。さらに、この直前普墺戦争敗れたオーストリア=ハンガリー帝国スロベニア人らの居住地域イタリアへ割譲するという問題発生したことにより、1868年から1871年にかけて「ターボル」と呼ばれる集会スロベニア人居住区全体開催され、「統一スロベニア」への支持行った。そのため、1892年にはキリスト教運動関係した農民らが集まったカトリック民族党 (en) が、さらに1894年には進歩民族党が結成された。 カトリック民族党が1899年ローマ教皇レオ13世出したレールム・ノヴァルム(回勅) (en) 」の実現要求して政治にも大きな影響を持つ事となったが、その一方で少数派であるリベラル派都市部中産階級中心に支持集めリュブリャナ大学設立要求した。しかし、これらの活動が行われたにもかかわらず、「ライヒスラート(帝国議会) (en) 」では議席配分によって不利益受けていた。その状況の中、ドイツ人らはトリエステに至る「ドイツ人」を維持するために強い圧力スロベニアにかけ続けた。そのため、カトリック民族党はクロアチア権利党 (en) との連携模索スロベニア政治家らはクロアチア政治家らにオーストリア=ハンガリー帝国にさらにスロベニア人クロアチア人スラヴ人国家形成して三重帝国とする構想(トリアリズム)」を持ちかけた。しかし、皇太子フランツ・フェルディナントはこの構想について考慮してスロベニア人除外したクロアチア人国家形成方針として採用しようとしたが、結局、この構想は「ユーゴスラビア構想」へつながる事となり、例えクロアチア国民党 (en) の指導者ヨシプ・シュトロスマイエル (en) と歴史家フラニョ・ラチュキ (en) らはセルビア公国基礎とする南スラヴ人による統一国家構想しており、さらにクロアチアセルビア政治家らの間で交わされた「リエカ合意」と「ザダル決議」によりクロアチア・セルビア人連合形成されたが、この中にはスロベニア含まれていた。

※この「民族意識の高まり」の解説は、「スロベニアの歴史」の解説の一部です。
「民族意識の高まり」を含む「スロベニアの歴史」の記事については、「スロベニアの歴史」の概要を参照ください。

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